ブルジョア資本主義とマルクス社会主義は、あらゆるものが、合理の世界の一部として理解可能とされ、唯物的な連続の一部として計算可能とされていました。
人間の実在にとり最も畏怖すべき根源的な事実である「死」
理性によるその理解が、形而学上最大の問題であった「死」につてさえ、計算可能なもの、唯物的な生命保険に転換してしまいました。
マルクス社会主義は、本来計算不能であって、唯物的存在ではない一人ひとりの人間の意思を、階級理論の唯物的法則のもとに置きました。
この「自由」は唯物的世界観の頂点に位置することとなりました。
合理の秩序の典型である物理学が、因果関係とともに偶然を否定するとき、もはやそれは唯物的世界観の限界に達し、あるいはそれを超えてしまったことを意味します。
(すべてが必然なら、人間に自由などというものはなくなります)
唯物的理性を超える合理性が用意できない社会に、合理の秩序だったはずの、価値の秩序が無効になりました。
合理を失った社会において、孤立し途方に暮れた一人の人間とって自由と平等はいかなる意味をもちうるのでしょうか。
機械的世界観の限界は、この1939年の段階でドラッカーにより宣言されましたが、90年後の今も、世界のパラダイムになっています。
未だに、経済が最高の価値で、世界は機械のように動いている天動説が世界を支配しています。


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