論語と算盤 :現代教育の得失

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昔の青年は、意気もあり、抱負もありて、今の青年よりはるかに偉かった…という人もいるがはたしてそうか。

昔の少数の偉い青年と、今の一般の青年を比較するのは間違っている。昔の武士及び上級の百姓町人の青年は、漢学教育を受けたもので、初めは小学、孝経、近思録、進んでは、論語、大学、孟子などを修め、一方身体の鍛錬とともに武士道精神を鼓舞したものである。一方、一般の百姓町人は、きわめて卑近な実後教とか、庭訓往来とか加減乗除を学んだに過ぎない。

しかるに今は市民平等となり、すべての人々が等しく学ぶ。

昔は少数でよいから偉いものを出すという、天才教育。今は多数を平均して啓発するという常識教育。
昔は良師を選ぶことに非常に苦労した。熊沢蕃山は中江藤樹、新井白石は木下順庵、林道春の藤原惺窩、皆良師を選んで学を修め徳を磨いた。

今の青年は自分の師匠を尊敬しておらぬ。
あたかも落語家か講談師のごとく、講義が下手だとか、解釈が拙劣とか生徒としてあるまじきことをいう。

昔は心の学問を専一としたが、現今は知識を得ることにのみ力を注いでおる。昔は読む書籍そのものが、ことごとく精神修養を説いているから、自然とこれを実践した。

今の青年は学問を修める目的を誤っている。論語にも「古之学者為己 今之学者為人」今の青年はただ学問のために学問をしている。

浅薄なる虚栄心のための修学の法を誤れば、これ実に青年の一身を誤るのみならず、国家元気の衰退を招く基となるのである。

以上は大正時代、今から100年ほど前の渋沢の言葉です。

渋沢は学問の目的は、人格の陶冶にあると言っているのですが、今の日本で、そのようなことを考えている教育者がいるでしょうか?

現在では18歳の時、記憶力の良かった人間が偉くなっているように思います。

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