論語と算盤…果たして誰の責任ぞ

論語

明治維新以来、文明は大いに進んだが、一方それに比べて商業道徳の方は進まない。
このような話を聞くが、もとより、道徳の徹底を求めるのは当然といえる。
しかしながら、道徳というものはその国の文化風土に根ざしたもののはずだ。

例えば、「父召せば諾なし、君命じて召せば駕を待たずして行く」とは、日本人の君父に対する道徳観念である。
父に呼ばれれば、声に応じて立ち、君命じて呼ばれることあれば、場合を問わず直ちに駆けつけるというのは、古来日本人の間に自然的に養成された一種の習慣性である。

しかし、これを、西洋の個人本位に比較すれば、西洋人のもっとも尊重する個人間の約束も、君父の前では軽くなる。
このようなことから、日本人の契約観念はあてにならぬといわれるのは、それぞれの国の道徳の在り方の違いを見ないものというべきだと思う。

このようにいうものの、余が現在わが国の商業道徳に満足しないのは言うまでもない。お互いおおいに警戒しなければならぬ。

渋沢の言うことは、現代日本の我々から見れば、古臭い、あるいは封建的にも見えます。
しかし、私はこのことは大切だと思います。

道徳というのは社会を健全に維持するのに必要な個人の在り方を教えるもので、すべての個人が我まま勝手にふるまえば、欲しいものを暴力で奪い、自分の都合ばかり主張し、病気のもの幼いもの、年老いたものを、無視すれば、やがて社会は崩壊します。

そのことを、古代の社会から、経験した先人が社会を維持するには、幼いものを教育しなければ後継者が育たず、病人や年老いたものをいたわらなければ、いずれ自分の番が回ってきたとき、ひどい目に合います。暴力がはびこればいずれ殺し合いになります・・

道徳というのはきれいごとではなく、すべての人間は社会の恩恵を受けているので、その社会を維持する努力をすべての市民が心掛けなければならないということですが、それは、それぞれの社会の成り立ちと深い関りがあるということです。

今の日本は、アメリカ基準になりすぎてはいないかと思います。

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