論語と算盤は、道徳の代表に「論語」を。ビジネスの代表に「算盤」を置きました。
それがあちらを立てればこちらが立たずというようなものではなく、むしろ支えあい補い合うようなものという観点から、渋沢栄一が書いたものです。
【処世と信条】11節 【立志と学問】10節 【常識と習慣】10節 【仁義と富貴】9節
【理想と迷信】11節 【人格と修養】11節 【算盤と権利】5節 【実業と士道】9節
【教育と情誼】7節 【成敗と運命】7節からなる、92節あります。
寄り道しながら、およそ半分人格と修養の4番目の解説にたどり着きました。
この話は、この一冊の中で、読み物として1-2の面白さがあります。
明治4年 渋沢は28歳、大蔵省の課長くらいの仕事をしていましたが、神田の自宅に、突然、西郷隆盛参議が訪ねてきました。
参議というのは、今でいえば総理大臣か副総理くらいで、いうまでもなく、新政府樹立、江戸城無血開城の立役者です。そんな人が、一人で渋沢の自宅に訪ねてきたのです。
用件は、相馬藩の興国安民法についてでした。
興国安民法というのは二宮尊徳が、相馬藩の立て直しを頼まれたとき、定めた法であり、相馬藩はそれによって危機を脱し、運営されてきました。
明治になり、国の財政改革を行うにあたり、井上候はじめ明治政府は、この相馬藩の興国安民法も廃止しようという動きになったのです。
これを聞きつけた、相馬藩は、二宮尊徳のこの法により、相馬藩は救われました。
これだけは廃止されないようにと新政府に陳情することになりましたが、大久保さん、大隈さんあたりでは話にならず、井上候など、ますます、話そうものならというわけで、西郷さんに頼みにいったのです。
西郷さんはそれを入れて、わざわざ、渋沢の家を訪ねたというわけです。
西郷さんは、『せっかくの良法を廃止するのは惜しいから、君の取り計らいでなんとかとならぬか』と切り出しました。
渋沢は「西郷さんは、二宮の興国安民法はどのようなものかご存じか」
「それは一向に承知せぬ」とのこと
「ご存じなしとは仕方ない私からご説明しよう。二宮先生は相馬藩に招請されるや、過去180年の歳入統計を作成、60ずつの天地人の三才とし、その中ぐらいの「地」にあたる60年間の平均収入を定め、さらに180年を90年ずつの分けて乾坤とし、少ないほうの90年の藩の歳出額決定、これを上回る剰余額を荒廃地開拓の費用に充てた。それによって、相馬藩の経済は再建された。」
「それなら誠に道理にかなった良法であるから廃止しなくともよいではないか」
「西郷参議はいやしくも、国家の料理をその双肩になられるおられる立場、国家の一局部の相馬藩のためにはご奔走あられるが、国家の興国安民法については、ご賢慮なしとは本末転倒」と、渋沢が意見すると・・
西郷はこれに何にも言われず、黙々として帰ってしまいました。
維新の豪傑の中で知らずを知らずとして豪も虚飾のなかったのは西郷公実に敬仰に堪えぬ次第・・と渋沢はいいます。
渋沢28歳、西郷43歳のころのことで、味わい深い問答でした。


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