無心と無意識

鈴木大拙に「無心ということ」という本があります。
その一節に、

「空」というとなんだか限られてくる、
それで空間的に見ないで時間的に見る、

すなわち、次から次へと新しいものをつくってゆく世界、
昔のそのまた昔、大過去から来たものが現在にでて、
ここでその過去が滞ることなく未来にむかっていく・・
私はこの一節を読んで、
「ああ、仏教というのは時間論なのだ」と思いました。

別な言い方では、生物の世界では、
すごいスピードで全身で新陳代謝が行われ滞れば死にます。
とどまるところがない。
これを、仏教では「空」といい「無」といいます。

大拙は、無心は東洋に有って、西洋にない。
東洋と西洋を分かつものと言います。

横井小楠は、西洋の学は、実学ばかりで心学がありません。
あれではいつまでも
戦争はやまないだろうと言いました。

二宮尊徳は、
経済のない道徳は戯言であり
道徳のない経済は犯罪である、といいます。

私は、現代社会の諸問題を解決する鍵が、
この「無心」にあると思っています。

そんな事を言うと、やたら高級な精神的境地、
最終解脱などといいそうですが、
そのようなつもりは全くありません。

マインドフルネスなどもそうだが、
人と違う、高級な精神的境地を目指す
という発想自体が、いやらしいと思う。

エゴではないというエゴとでもいうか・・

先週、正念の上で大切なのが
四念処と紹介しましたが・・

つまりは、自分などというものは無いのだと
その自分が思い続けなければ
正念にならないという・・
つまり、自我の強化を育てるだけです。

ただ、自分という存在が、
自分という存在などない、と思うのは難しい。

では、どうしたら、の答えが、身体で覚えるでした。
私は、人間誰でも潜在意識・或は無意識の上に、
自分という自覚、あるいは意識を浮かべていると思っています。

私達は、自律神経ものにより、生かされています。

心臓も消化も、意識の力で動かしているわけではありません。
普段は無意識で、意識で動かす事もできる
両面性を持っているのが呼吸です。
あらゆる宗教や精神的修行は呼吸法を入り口にします。

つまり、我々は自然であり、動物で、
その中で、ポカリと浮いてきた浮島のようなものが
人間意識なのです。

ところがこれが、西洋的自我というか、
他によらず自分だけで存在するように思いやすくあります。
そうなると、ほかから切り離されるので孤独です・・
これが独立して存在するものではなく、
他によって支えらてあるということを
叩き込むのが心学で
その最短距離が、武道だと思います。

私は子供の頃から、「走るのは犬でも走らぁ」とうそぶいて、
同級生が走り回って遊んでいるのを横目に
本を読んでいる生意気な子供でした。

泳げず、自転車に乗れず、逆上がりもできません!
(いばることではありませんが 笑)

それでも、人間、本を読んでいればよいのだと思っていたのです。
私がスポーツとか運動、或いは武道に興味を持つに至ったのは、
30歳に近くなり、セールスの世界で行き詰まってからです。

理屈で説得しても、売れないのです。
わかるだけではだめで、やらせなければならない!
つまり、理屈ではなく行動なのです・・

そこでようやく、目を開きます。

そのうち、プレゼンテーション自体が、
お客と二人で演じるかけあいのようになってきます。
きれいに決まると全く抵抗がない・・

はからい、作為、などを離れて、
初めて美しい営業になります。

この無心ということの教育が、
人間には不可欠なのだと思います。

自我を肥大させ、自我の延長が我が物という発想が、
国土と権力の拡大、戦争、自然破壊の元凶なのではないでしょうか。

来週は少し、セールスの話をする予定です。

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