自分というものが存在するということは、疑えません。
悠久の時の流れのなかの、今、
広大無辺の宇宙の原点の、ここ。
今・ここ、という時間と空間の原点ゼロは、
そのまま自分なのだから
自己中心になるな、というのが無理な話でしょう。
他のすべてを疑っても
「自分」が存在することは疑えないのだから、
「自分」だけは、他の存在に支えられなくとも、
存在できると考えるのも無理はありません。
人間の自我について、前回書きましたが、
この自我というものは厄介なもので、
人間はほっておくと、わがままになります。
自己中心になるのです。
その上、人間には欲望を実現するための知能があります。
人間の知能は目標を定め、
その目標と自分の間にある障害物を敵とみなし
排除します。
目標にフォーカスすると、視野が狭くなります。
それで良いのだというのが資本主義で、
争い競争するなかで
自然とバランスが取れるという考えです。
そのようなはずがありません。
全ての価値の源泉は、
人間の労働からしか生まれません。
人を働かせてそれを搾取しているのが、
資本家で、やがてその格差は拡大し、
民衆が多数なので、革命が起こります。
話し合いでは解決できない対立なので、
やがて暴力で解決する
というのが、共産主義です。
そこで、個人の欲望を捨て、
全てを国家で管理するのが、共産国家です。
しかし、共産主義はやがて一人の独裁者が
他のすべての人の自由を奪うように
運営されることが多いというのが歴史でした。
スターリン、毛沢東、金日成・・・
すべての権力は暴力で得られました。
ベルリンの壁が崩壊し、
自由主義、資本主義が勝利したように見えますが、
今度は、世界そのものがくたびれてきました。
日本人には、そのはじめから、
自己中心をさらに、人間中心を危険と感じ、戒めてきました。
人を殺す技、剣の技でさえ、剣道といい、
人の道として戒めてきました。
その極地は無念無想といい、不動心とも言います。
無心ということは、自我とか、自意識を鎮め、
潜在意識の働きに任すことをいいます。
無心というと座禅や瞑想が象徴的です。
次回は座禅やマインドフルネスに触れてみたいと思います。

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