西田哲学の自己流解釈

西田幾多郎と鈴木大拙は高校の同級生だということです。

そして、生涯の友でした。
みなさんには、そのような、友達はいらっしゃいますか?

私にも、中学から50年も付き合っている友が3人います。
4人なので、集まると、麻雀になりますが、いろいろと議論もします。

そのうちの一人が京都大学でしたから、学生時代に下宿をたずね
哲学の道を歩いたことがあります。

西田は、禅を西洋的に解説しようとしたともいえると思いますが

とにかく、言葉がわかりにくいので、難しく感じます。

私のメルマガも、わかりにくいという声も聞きますが・・
簡単なことを、難しく云うのは馬鹿だというのが、私の持論ですので

できる限り、わかりやすく、噛み砕きたいと思います。
西田といえば、『絶対矛盾的自己同一』という言葉が有名です。
これで、いやになる人が多いと思います。
絶対・矛盾・的・自己・同一と区切って読み、解釈しようとするのではなく
一息に読むということです。

一息に読んだって同じことじゃないか
という声が聞こえそうですが

これで、一つの意味の一語なのだ、

と言いたいのでしょう

私流の解釈は、

「昨日と今日では違うけど、わたしはわたしは、かわらない」
・・・・ということです。
解説によると

過去と未来が現在において互いに否定しながら結びつき

自己は自己を否定することにより真の自己となる

とか

Aは、非Aであり、それによって、まさにAである

と書いているのですが、まさに、哲学という感じで、
わけがわからないのですが・・・

これを読んだとたん、私は、先ほどの友人たちと中学時代に読んだ、
「非Aの傀儡」という
SF小説を思い出しました。

このAは、アリストテレスのAでアリストテレス論理学の基礎は

A=Aであり、AでないものはAでないという、ものすごく普通に見えることから
始るわけですが、

このA=Aということを否定するので、非Aというわけです。

どうやって?
簡単なことで、武田は武田だけれど、中学生の時の武田ではない

その全てを含み武田である。

あなたはあなただけれども、中学生のときのあなたではない

その全てをふくみあなたなのだ。
という解釈をすれば、ぜんぜん難しくありません。

つまり、時間の経過ということを、論理の中に入れる、あるいは

中心におくという考え方です。
西田と鈴木の共通の師で、彼らに強い影響を与えた、北条時敬という高校の先生がいます。

後に学習院の院長になるような偉い人ですがかなり変わった人で、
気に入らない人間には口をきかない。

今北洪川という人に、禅を学んだという、野球好きの数学者です。

この人に学び、鈴木はさっさと、鎌倉に行き、洪川に参禅し

西田は強く数学の才能を認められ、数学者になることを進められたそうです。

彼の試みは東洋を西洋の論理で解説するということだと思います。

禅の中心概念に『無』或いは『空』というものがありますが、

大拙はこれを、
『空間的に捕らえるより、時間的に捕らえたほうが解りやすい』
と言っています。

西田は論理的で、数学に強い人だったので、
これを、時間空間をふくむ次元と言う概念で
説明しようとしているのではないでしょうか。

意識を深める修行というのは、単なる階層ではなく
階段を下りてゆくようなものではなく、

次元のように思われ、それを加えていく努力と思われます。
零次元 点 判断的自己  自分の精神と物質的世界は関係なく存在する

一次元 線 知的自己   外に存在するように見える世界は自分の心に
                 映る現象である

二次元 面 意思的自己  起こる現象は自分の成長のための問題である

三次元 立体 叡智的自己 自己が世界を包み込み、自在になる
                  ゾーンに入り、無心の境地

4次元 時空 人格的自己 宇宙自然と自分が一体となり区別がない

他者を自分が包むと言う、西田哲学を

実際の我々の生活にどのように、活かすことができるか、

これが次回のテーマです。

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