さわやかな季節になりました。
科学の限界について、二つの文章をまず紹介します。
「禅と精神分析」 鈴木大拙
25P
科学が実在を扱う方法というのは対象をいわゆる客観的方法で観察
例えば、この机の上に一輪の花がある。
これを科学的に研究するとすれば、
植物学的に、化学的、物理学的にいろいろとやる。
そしてそれぞれの特殊の研究的立場から花について見出した。
あらゆる事柄を報告する。・・・・・中略・・・
対象を記述すること。それに”ついて”語ること。
その”周囲”をぐるぐるまわること。
27P
科学的方法はいったん相手を殺し
死体を切り離して、
もとの生きた個体を再現しようと試みるが、
これはまったく無理な話と言わねばならぬ。
30P
科学者は二元論の上でいろいろ考究をやる。
だから全てのものを量的な尺度に還元して行うことになる。
一切を量的に測ることのためにいろいろと機械の応用を考案する。
この科学の網の目がどれほど精密にできていると言っても、
これが網の目である限りその目から抜け出すもののあることは必然
この目にかからぬものはなんとしても科学の秤では測れぬのである。
量と言うものは必ず有限なものである。であるから、
科学者は必ずいつの日かこれ以上実在の目をくらますことはできな
とみずから告白せざるを得なくなるだろう。 1957年
どうですか
いろいろ、言いたいこともあるとおもいますが、
「時間の歴史-物理学を貫くもの」渡辺 慧
3P
科学の正確さにも限界があるのです。
もし科学が常識や勘に優越を誇りうるとしたならば、
それはむしろ科学がその限界を自覚しているからであるとさえ申せましょう。
14p
我々の理論はどの段階にあっても、
立体的なものの平面的な一側面をみているようなものです。
次の代の理論へ進むことは、
しかし、こうして得られた新しい理論は、
また一つの平面的な一側面に過ぎないのです。
ですから理論の進化を幾何学的な言葉で言い表せば、
それは次元を漸次増加させるということになります。
21P
科学は、
有限をもって、
そこに科学の方法の特徴が生じます。
われわれは全体を全体として一時に飲み込むことをあきらめるので
われわれは全体を必ずある切断面において知ろうとするのです。
このような方法こそ科学の確実さを保証するものであり、
しかも科学の限界を定めるものであります。
しかし科学は自然の一側面を描く絵画です。
それはわれわれの創造です。
その意味で我々は自由です。 1973年
渡辺慧は、鈴木大拙ほど有名ではありませんが、
素粒子論や情報論を専門とする物理学者で、れっきとした科学者です。
人間の科学はその限界を自覚し、観察の方法、測定の誤差など
条件をつけるから信頼できるのです。
そして、東洋の方法或いは、古くからの主張のあるものは、
人間や装置による、五感による観察によらないで、
自然を直感することを主張していると思えます。
その方法は、みずからが自然の一部であることを活用し見るものが、
見られるものと一体化するということであり、
それがうまく行くと
大自然全体を実感することができるという、脱・客観の主張です。
それを、主客合一 というのではないでしょうか。
別に新しい話ではなく
ヘーゲルの弁証法や、西田哲学、や、今西錦司などの京都学派
大森荘蔵など、言い古されたことかもしれません。
主観と客観を超えて・・・
それが一致したとき
自己の中心が宇宙の中心と一致すれば
人と争うエゴなどなくなるのではないか
自分のものはここからここまで、
などという狭い了見はもたないのではないか
そのような、純粋な境地で、自分と相手が溶け合うように
ともに成長する。
ここに、セールスの神髄があるのではないか・・
それが私の考えです。
その上で、はじめて、WIN-WINと言う話ができるのではないでしょうか。
長くなりました、次回は意識の拡張深化ということについて
西田幾多郎を読み解きます。

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