科学の限界

科学は、絶対的に正しく、
非科学的と言われれば、それだけで、
現代社会の常識人の資格を失うような
そのような印象があります。

私は、科学というものは
その本質に限界があり、
その自覚を持っていることが
科学者の資格のはずだと思っています。

私が鈴木大拙の本に出会ったのは、
多分高校2年生のときでした。
「無心ということ」という薄い文庫本でした。

私がものを考えるきっかけになったのは、
小学校4年生のころで、
【時間とはなにか】
なぜ、空間の中では自由に動けるのに
時間は過去から未来に一方的に流れていくのか・・

なぜ「私」は、今にしか存在しないのか・・
という問題でした。

百科事典を読んでも、
私の求めるような答えはなく、
自分で考えるしかありませんでした。

そのうち、百科事典の
特殊相対性理論の項目を見つけ、
時間と空間の相対性という内容に夢中になりました。
中学生の頃でした。
高校に入ると、史的唯物論、弁証法、
などということを教えてくれる先輩がいて
マルクスの「科学的歴史観」という、
人類の歴史・・

時間を科学的に論ずる、という考えに惹かれ、
高校一年で学生運動を始め、
2年間デモ隊を組織しました。

機動隊と何度もぶつかるうちに、
相手の人数は少人数なので、
なんとはなく顔を覚え、
顔見知りのような親しみを覚えると・・ 

階級闘争理論というものがおかしいように思えました・・

彼らも家に帰ればいいお兄さんに違いない・・
何かおかしい・・
彼らと殴り合って本当に世の中が良くなるのだろうか・・

私はそのような疑問を持ち、
佐藤栄作首相の訪米のときに学生運動をやめました・・

その後も我が母校の学生運動は続き、
私が卒業した翌年には、
都立高校で唯一バリケードストライキをやり、
青高ならぬ、赤高と言われました。

高校3年になると、
マルクスから鈴木大拙に興味が移っていきました。
「無心ということ」の一節に、
空とか、無、とかいうことを、空間的に捉えると、
何か、なにもない空っぽの空間、
果てしなく広がる暗黒の、がらんどうのようなものを想像し、
生き生きとしたものが出てこない。
そうではなくて、空というものを、
時間的に捉える無限の過去に誕生し、
現在にいたり、そこから未来にとどまるところなく
広がっていく、どこにも滞るところがない・・

このような意味の文章がありました。

私はこの一行で、
禅仏教は時間論なのだと捉えたので、
東洋思想に惹かれました。

東洋と西洋仏教を科学的に考えるという意味で
鈴木大拙は絶好の人でした。
次に読んだのが
「禅と精神分析」鈴木大拙、エーリッヒ・フロム、
リチャード・デマルティーノの3人の共著です。

私はこの本の読書感想文を書いたら、
国語の教師がなにかに応募したらしく
【全国学校図書館協会長賞】という賞をもらいました。

私には大したものとは思えませんでしたが、
しばらくの間は、学校にその表彰状が飾られていたので、
大人が読んでも、まあ、
ある程度読めていると評価されたのだと思います。
その中に、このような一節があります。

ここに、一輪の花がある。
これを科学的に研究するとすれば、
科学者はそれをあらゆる角度から分析する。

植物学的、化学的、物理学的にいろいろやる。
そしてそれぞれの特殊の研究的立場から、
花について見出したあらゆる事柄を
報告する。

そこでいわく
「花の研究はつくされた。
この花について述べることは、もはや何も残ってはおらぬ」と。
であるから、

実在の科学的取り扱いというものの主な特徴は、
対象を記述すること、それについて語ること。
その周囲をぐるぐる回ること。

我々の知的感覚に訴えるものはなんでもこれを捉えて、
それを対象から抽出する。
そして、一切のこうした手段が終わったと考えられるときに、
こうした分析によって、
公式となった抽象の結果を総合して結論というものを得ることになる。

しかし、なおここに、疑問が残る。
『網に捉えたものは果たして完全なものだったのか』ということだ。

とんでもない。

科学が捉えられるのは、抽象の寄せ集めではあるが、
そのものズバリではないと。

水から網を引き上げてみて
”はて?何か網目から逃げ出しているな”
ということに 気づく・・・
私がこの文章を読み、何かを感じ、感想文を書いたのは
半世紀以上前ですが、進歩がないというか・・

まだ同じようなテーマを感じ、
なんとかしなければと思い続けています。

次週は「それでも科学を拠り所にしたい」
ということをまとめたいと思います。

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