我々は、日本の戦後の教育を受けて育ったので、
それ以外の教育を知りません。
保育園は厚生労働省、
幼稚園から小学校から大学までは文部科学省の管轄で
教育委員会が、それぞれの都道府県にあるといいます。
私は幼稚園時代から本ばかり読んでいて、
祖母が特にかわいがってくれました。
その祖母が
「お前のお父さんは情けない、
武田の惣領なのに人に使われて」
などというものだから、
子供心にそんなものかと思っていました。
小学校一年のとき、道徳の時間で
「お父さん、お母さんの言うことを、
ハイと素直に聞くのが親孝行ですよ」
と言われ、
「先生、それは違います。
お父さん、お母さんが間違ったことを言ったら
それを正して上げるのが本当の親孝行です」
といって母親が呼び出されました・・。
3歳上のいとこがいて、
彼女が4年生のとき私は1年生でした。
4月に新しい教科書が来ると、
その教科書を一週間ぐらいで、
読み物として読んだので、
学校に行くと授業は暇で
図書館から本を借りてそれを読んでいました。
私にとって、本を読むのは趣味で、勉強ではありません。
何しろ必要で読むのでなく、好奇心で読むのです。
そんなわけで、
小学校で受験勉強などというものは無縁で、
自分の興味のあることを勝手に
読むということが癖になっていました。
私は、教育というものは、
その本人の内側から生まれるものを
伸ばすことだと思います。
現在の教育は、減点主義で、
先ず正解が決まっています。
正解というのは教師が決めます。
100点満点でも、教師と同じで、
絶対教師を抜くことは出来ません。
小学校、中学校の義務教育では、
国語、算数、理科、社会、そして英語が主要5科目
音楽、美術、技術、保健体育がその他4科目
主要5科目が重んじられ、
ほとんど記憶力の問題で、
後の4科目もペーパーテスト「記憶力」の問題なのです。
知らないことを知り、わからないことがわかり、
出来なかったことが出来るようになるのは面白く、
楽しいことのはずだと思いますが、
学校の授業がつまらないのは
意味なく記憶のテストをするからだと思います。
世界には、シュタイナー教育とか、
モンテッソーリ教育とかユニークな教育法があります。
教育が義務なのは、
学ぶ側ではなく教える側の義務で、
親の義務、社会の義務なのです。
なぜかというと、
我々の社会は、長年の科学技術や、
生活の知恵の積み重ねで成り立っています。
もし、コレを受け継ぐものがなくなれば、
社会は一気に野蛮状態に戻るでしょう。
それでは現代の社会を継承し、発展させるには
どのような人間教育が必要でしょうか?
正解があると保証されているのは学生の間だけで、
現実の社会には正解はありません。
現実は先例のない試行錯誤の連続で、
失敗は減点ではなく、学習なのです。
工業文明の時代には、同じ時間に出社し、
機械が動くのに合わせて歩調を揃えないと
生産性が上がらないので、
規格品のような人間が求められました。
昼の間は笑わず、トイレも行かず、
自分の感情を抑えて、機械のように働く。
夜になり、休日になるとテレビコマーシャルにつられて、
抑えていた欲望を開放し、
同じような、大量生産された家やマンションに住み、
同じようなものを食べ
同じようなテレビを見る・・
規格品のような型にハマって、教師のマネをする人間では
これからの時代を支えることは出来ません。
自分から学ぶ、長所を伸ばす、個性的である、自分流に考える。
人の考えないことを考える・・そのような人間教育。
人は本来ひとりひとり違い、
それぞれが学んだものを吸収し
体も頭脳も作り上げていく・・
当然、全て同じものは2つとない、ユニークなものなのです。
日本には修行というものがあります。
修行と学習は違います。
修行というのは、心技体一体のものとして
それを実現している師匠から
見様見真似で教わるものです。
言葉で教えられるものではありません。
手取り足取りでも、同じには出来ません。
なぜかといえば、師匠と同じことをやっても、
手の大きさも、腕の長さも、太さも違うのです。
もし完全に同じことをすれば、違う結果になります。
だから自分という素材に合わせ、
創意工夫を自分がしなければ、
出来るようになりません。
音楽、美術、技術、体育などに、
生徒の素質を発見し伸ばすことの出来る
優れた教師を置くことが出来たら、
日本人の能力はその本来の輝きを増すのではないでしょうか。
言葉と知識には限界があるということを、
言葉で教えられる優れた師匠の育成が先かもしれません。
子供は皆、無限の可能性を持っているのですから。

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