釈迦の呼吸法から始った、このメルマガ、最初にお約束した
東洋思想の紹介から、横道にそれたように感じていらっしやるかもしれません。
べドガーの質問話法について書いてきましたが、実はこれは
先日のマインドフルネスの勉強会で
犬の「待て」は、意志力か?という質問に対する 私なりの答えの
「前提」の整理のつもりでした。
意志とは、何か?
意思とはどうちがうか?
意志力は、『力』として本当に鍛えられるのか?
このような、問題に私なりの答えを出そうとすると、
私の中では人間の前頭葉の機能としての意志力と、犬の「マテ」が同じはずも無く
そうかといって、ぜんぜん別 という気もしないので、
意志力にも『階層』があるということを考え、
その例として、べドガーのセールスを持ち出したつもりなのです。
意志ということを考えるとき、比較対象になるのが
知性と感情です。
知・情・意という昔から言われることです。
知と情の二つは、コンピュータ(知)・犬(情)でカバーできますが、
意志・・・・ 自由意志とか、選択・判断とかいうことと
意思・・・・、思い、考えとか いうことも、
意識 つまり、我々が今感じている、自覚できる、今ここの生きている感覚
と 切り離すことはできないはずです。
呼吸法でも、書きましたが、深い呼吸は、意識的にしなければできず
ほっておくと、自然に、無意識の、浅い呼吸に戻ってしまいます。
そのように、意識には、覚醒した意識と
自動化し、潜在化した意識があります。
意志とは、この覚醒した意識を前提にしており、
意志力とは、さらに、覚醒した意識を維持し続け、
現状維持の状態に戻ることを、
自覚によって、変えようとする、
「向上の方向」「学習」「進化」の方向にあるのではないでしょか。
意識については、認知科学が研究をしています。
そして、最新の (私の知る限り) 認知科学でも、解き明かせないのが
意識の中の「直覚」です。
意識について東洋思想(仏教)では、五蘊皆空ということを、いいます。
色・受・想・行・識という、 外部刺激、と感覚と 想念と行い
その結果として生まれる、自意識その全てが{空」である。
自分自身と信じている、自覚、意識そのものもまた「空」である
ところが、いつもここにある、自分だけは、不滅のように思い、執着してしまうのが
無明であり、苦の始まりであると説くのです。
この、「吾」もまた「空」というのと
全てを疑っても、これだけは疑えないというデカルトの
「吾思う故に吾あり」という、近代西洋の、個人の主体性は
人間の尊厳や、自由や民主主義は、
共存可能なのでしょうか
私は、意思力の強化に、東洋の行法が登場することに、意味があると思います。
とても、大きく面白いテーマなので、ゆっくり、確実に
議論してゆきたいのです。

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