波と海

私達の精神、意識と言うものは、それこそが「私」というぐらい

自分の本質というべきものです。

例えば、爪を切り、髪を切ったときに、それらはかつて

自分の一部ではあったが

切り取ってしまえば、自分自身ではない・・

それと同じで、不幸にして事故に会い、足や手を失っても、

それは自分ではなく

ひょっとして、心臓を移植しても、脳の一部を切り取っても

自分自身とは思えない。


自分とはこの「意識」である。

このような考え方が、普通でしょう。


しかし、人間は、人が死ぬのを見ます。

私も

祖父が死に、祖母が死に、弟が死に、母が死にました。

そうであれば、自分が例外であるはずがないということは、

理屈では誰でもわかるのです。

しかし、我々の意識は、本当にそのことを覚悟しているでしょうか?

あたかも自分の肉体が滅びても、自分の意識だけは不滅とさえ、

思いたいのです。


私達の精神が波のような一時的な現象で、やがて消えてなくなる・

それはそれで、とても虚しく思えます。

仏教の無常観とは、ニヒリズムにも思えるのですが・・


しかし、波は海の一部です。

そして海は波が消えても残ります。

人間の意識は顕在意識といい、潜在意識に支えられています。

つまり、潜在意識が海であり、顕在意識が波なのです。

顕在意識は脳の働きの一部であり、

体性神経とは別に、交感神経・副交感神経

という、自分の意志とは関係なくこの体を活かす

神経系があります。

また、大脳にしても、辺縁系という感情の脳や

運動を自動化する小脳の働きは普通自覚されません。

そしてこのような、脳や神経系の働きである心や

神経系全体は、自分からその、親へ、祖父母へとつながる

進化の、結果、生まれたものであることは

明らかに思えます。


この潜在意識のことを、末那識といい、阿頼耶識というのが

大乗仏教唯識の 思想です。

今、ここに、私は世界から切り離され、孤独に存在するように

思えるのですが、

実は分割不可能な生命の体系・・時間を超えて、親からその親へ

やがて人間から遡り、哺乳類、爬虫類、魚類、単細胞生物へと

途切れることなく連なった生命の炎という現象の・・

先端なんです。

自分は現象にすぎないという覚悟が

すべての生命はつながっていて、私もその一部なのだという

宇宙規模の生命感につながるのです。

どうも、話が抽象的になります。

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