布施行

庭のあじさいが大分元気になっています。


人間にとって、自己中心に成るのはとても自然なことです。

何しろ、物心ついたときから、周りの物事を観察するのは、

今、ここ、という自分自身、つまり、観測の原点です。

自分が見ている周囲の全ては、幻想かもしれないと、

疑うことができますが、

その疑っている自分自身がいることは、疑えない・・

それが、我思う故に我あり。の、近代的な自我・・

デカルトの我なのです。・・

その「私」は、他のものによらずに、存在できるようなカンジがするので

自分の魂は肉体を離れても存在するような気さえします。

又、この自分自身がなくなってしまう・・いずれ死んでしまうというのは

恐ろしく、直視したくないことなのです。


そこで、自我の存在を守るために、鎧をまとうように、自分を

飾り立てます。

地位や、名誉や、財産や・・

しかし、その全てを守ろうとすればするほど、

苦しいのです。

全ては、あの世に持っていくことはできません。

そしてすべての生き物は必ず死にます。


デカルトだけでなく、バラモン教でもヒンズー教でも

魂、あるいはアートマンという存在を信じます。


釈迦はそれを否定します。

それが、無我という概念です。


私はコレがとても、科学的だと思います。

私達の命は新陳代謝による現象です。

その現象は、やがて静まります。

その現象の上に乗っている現象、意識ですから、

意識もやがて消えるのです。


しかし、其のことを、意識自身が納得するのは難しいのです。

其のことをまず、意識が納得し、

潜在意識まで至ってこそ、仏道に目覚めるのです。

其のための第一歩が自分の大事なものを、他の人に渡す

布施行なのです。

ですからお金には限りません。

笑顔を見せるのも、席を譲るのも、布施行です。

現代の言葉で云えば、ボランテイアでしょうか・・

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