悟りとはなんだろうか(2)

「だるまさんが仏教をインドから中国にわざわざ伝えた意味は

 何処にあるのですか?」

 「庭の柏の木」

「・・・・・?」

コレはどういう意味でしょうか?というのが前回のテーマでした。

突拍子もないやり取りで、いわゆる禅問答というやつですが、

我々の日常の会話でも、質問に直接答えないことがあります。


「野球はどちらのファンなんですか?」

「僕が何処の出身だと思っているんだ・・」


このやり取りの場合、大阪の出身だったら、阪神ファンなのは

当たり前という意味ですね。


つまり、何処のファンなんですか?→阪神です

という素直な答えから


何処のファンなんですか?

君は僕の出身地を知っているはずだ

大阪の人間なのだが、大阪の人間はほとんど阪神ファンだ

だから僕も阪神ファンなのだが

そのようなこと聞くこと自体が、僕のことを、分っていない証拠だ


というようなやりとりなのです。

それでは、「柏の木」とは何でしょうか

実は「柏の木」でなくともよいのです

仏教の本質はなんですか・・というような真剣な問をしている弟子に

庭の柏の木・・などと言われればびっくりしてその木を見るでしょう。

その木を見ているのは、「誰か」その一瞬無心に見るもの

見られるものが一体に成る瞬間が仏教の真髄だ


「柏の木」といったとき、「柏の木」を見ているその人がいます。

インドから中国へ達磨大師が仏教を伝えたのは

今、その「柏の木」を見ている生身のお前さんのためだよ・・

禅と言うのはどうも、観念的、哲学的に思考することを嫌い

今この刹那に生きている個人がどうか

ということにこだわるようです。


なぜかというと、悟りというのは、抽象的な概念を頭で理解する

ということではなく、

泳げる、とか逆上がりができる、とか自転車にのれるというような

全く個人的な体験で、

できた人はまたできるし、どうすればというのは言葉にしにくいが

人の教えるにも、やってみなさいとしか、言いようがないコトのようです。


私は「悟り」の経験をしたわけではなく、釈迦の言葉や様々な文献

道元の言葉や、鈴木大拙の言葉から、推測しているだけです。


しかしながら、どうもこういうことではないかということを語らないと


この悟りとはなんだろうかとい、テーマを書き出した

責任が果たせない気がします。


仏教の根本は因果の法でした。

因果とは原因と結果です。それは物質ではなく現象です。

仏教ではすべてのもの、は相互に支え合って存在し

それ自体で、独立して存在するものは何一つ無いと言います。


ところで、我々は、自分だけは、自分以外のすべてを観察している

思考なので、

自分だけは「独立して」存在できるように思うのです。


これがデカルトの「我思う故に我あり」ですし、

バラモン教やヒンズー教のアートマンです。


仏教の無我ということを、体感するあるいは体験することが

「悟り」だとすると、筋が通ります。


どのようにするかというと、多分

意識を可能な限り極小に集中するのではないでしょうか

そもそも、「今」と「ここ」というのは時間と空間の広大な世界の

交点で、時間距離ゼロ、空間距離ゼロ、点、つまり広がりがないはずです。


そうすると、自分が無限小・・ゼロになると、無我であり

同時に自分以外が全て自分と一体になる・・・

1メートル75センチ、75キロなどという半端な大きさの自分が

ゼロに、成れれば、無限と一体になる・・きっとそういうことに違いないと

最近は思っています。


なぜ、ゼロになると、逆転するように、無限になるのか・・

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