仏教を現代の言葉で語れば

今から2600年ほど前、釈迦族の王子ゴータマ・シッタールーダという
35歳の青年が、瞑想ののち、明けの明星を見て、
『あの明星と自分は一体なのだ』と悟りを得、

この悟りを人に教えるべきかどうか、悩んだ挙句
ともに、修行した学僧だったら、理解してくれるかもしれないと
考え、彼らが修行しているところへ、
250キロもの、道を歩いて、訪ねて行った。

かつての仲間たちは、ゴータマは苦しい修行を放棄し、
堕落したと思い込み、軽蔑していたが、
「私は不死を得たと」声をかけた。

その、輝かしい容貌に,何かあったと、感じた彼らに最初に説いたのが

四聖諦と言われる、苦集滅道だと言われる。

この世は、思うとおりに行かないことに満ちている。

人は望んだわけでも無いのに、生まれてくる
愛した人もやがて別れなければならない時が来る。
嫌なやつとも会わなければならない、
欲しいものはなかなか手に入らない
食欲や性欲は返って自分を苦しめる これは心理学であり、

いつまでも若々しく元気でいたいのに、日に日に老いてゆく
いつまでも若々しく元気でいたいのに、病にかかる
いつまでも若々しく元気でいたいのに、やがて死ななければならない

これは生理学、生物学である。

なぜ全ての人間はこのようなことに悩まされるのかというと、

それには人間独特の原因がある
その原因が突き止められれば、
解決方法も見つけられられる
解決方法が実行されれば、その悩みは解決される。

やがて死ななければならないと言う、

悩みから開放されるのだから

不死を得たということが出来る

それではその人間の独特の原因とは、なんだろうか

この宇宙の全ての存在は、不動不変の、「モノ」はひとつもなく
全て、「コト」現象である。

従ってそれ単独で、他のものによらず存在するものは何もない。

全ては、ビックバンから始まり、星が生まれ
太陽系が生まれ
地球が生まれ
生命が生まれ
人間が生まれ
そののち言葉と社会が生まれ、
私達が生まれた

位置しか無い点という存在は頭のなかだけにある
実在しないものである
面積の無い、線という存在もまた頭のなかだけにある
実在しないものである
高さのない面という存在も、また頭のなかだけにある
実在しないものである
時間のない空間という存在も、頭のなかだけにある
実在しないものである。

実在するものは、時間と空間が一体となった
全存在
時間的にも空間的にも限定できない「全て」なのだ
その全てが、原因と結果の連鎖であり
区分することの出来無い
一つの連なりであり、
区別することが虚妄なのだ。

故に、金星と私は一つなのだ。

では
次回は何故、人間が区分し、区別することにより
悩みを持つかについて、現代語で説明します。
デカルトの『我思う故にわれあり」は
近代思想のスタートで、実験科学を可能にしましたが、
釈迦の時代のインドでも
アートマンという我の存在はそれまでの思想の中核でした。
これを否定したのが仏教です。

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