みなさんは、科学というとどのようなイメージを持たれますか。
私は10代の時に、『禅と精神分析』という鈴木大拙の本を読んで、
読書感想文を書き、応募したつもりもないのに、
ライオンズクラブから表彰をもらいました。
その頃は、東洋思想に入れ込んでいる人は
少数派だったのだとと思います。
70年安保のすこし前でした。
私自身も、マルクスにかぶれ、高校一年から、学生運動を行い。
唯物論、科学的弁証法、などと格闘した後、
どうも変だと思い模索し、鈴木大拙と出会ったのです。
その本の一節に、
「科学は生命を殺し、芸術は生命を創造する」
という表現があります。
またその後、読んだ安岡正篤には
科学は枝であり、宗教は宗・・つまり元であるという表現がありました。
つまり、鈴木大拙や、安岡正篤などの
東洋学の泰斗という人たちからすると
宗教のほうが科学より上位に有るのです。
ですけれども、現代社会は『科学』抜きには成り立ちません。
人間は自分の生涯かけて学んだことを『外部記憶装置』としての
文字に置き換え、世代を超えて蓄積する事ができます。
遺伝子的には99%同じチンパンジーとの
数百万年変わらぬ密林の生活と
月にまで飛び、摩天楼をつくり上げる、
人間との差がここにあります。
ある記述は、訓練すれば
誰がやっても同じ結果が出せることが確認され
技術として伝承されます。
次の世代がより良くする方法を発見し、積み上げます。
この無数の人々の気の遠くなるような努力と、苦心の総合が
現代文明であるわけです。
其の実証された人類の協同財産を軽んじることは出来ません。
それが共同であるから、コミュニケーションが成り立ち
コミュニケーションが可能だから、共同社会が成り立つのです。
一方、『科学的』という名の独善あるいは盲信もある気がします。
マルクスは科学的なのでしょうか
フロイトは科学的なのでしょうか
そして科学的と言うと信用できると思い、なぜかを
問わずに盲信するのは
科学的なのでしょうか。
仏教は広大な世界です
84,000の法門が有ると言われ、
大河が、無数の支流に分かれているような、歴史と広がりを持っています。
佐々木閑という「科学するブッダ」という本を書いた仏教学者によれば
まともな仏教学者になるには8カ国語に通じる必要があると
言われたとのことです。
また藤田一照さんによれば
人間の日常の営みはすべて仏教に含まれる
仏教の広がりは、人間の日常の営みより広いのだから
と言われます。
ただでさえ、広大な仏教世界なのに、
さらに悪いことに、「不立文字」です。
空と言い
無といい・・
物事が別れる以前、すべてが一つだった状態
主客未分の、時間的のも、空間的にも限定できない「何か」
『言語』では表現できない
体験するしか無い・・というのが禅の世界です。
体験したことをどう感じるかは、主観であり
私は、悲しいと、
本人が主張する時、それを否定するのは
不可能です。
さらに、当初、釈迦は文字を残さなったのですが、
やがて、マントラが唱えられ、フレーズ状のタントラになり
タントラは連なってスートラ〈経典)となります。
そうなると『心を鎮めて欲を断つ』というフレーズさえ
どのような解釈も可能なので、
全ての経典に対し無数の解釈と論争が絶えないことになるわけです。
コレが、仏教が様々な宗派にわかれていった原因だと思います。
然し、科学は進歩してきました。
科学はこの世界の法則と構造を明らかにしようと云う
人間の努力の蓄積です。
更に、勿論進歩の途中ではまちがいが、
あったのですが、
自然科学は実験を繰り返し、観測を繰り返して、検証した
事柄に、より技術を確立してきました。
人間の科学は、とうとう、この宇宙で最も複雑なもの
自分の脳の中の、感情まで、扱えるようになったのです。
『汝、自身を知れ』という問に
いよいよ、答えが出せる可能性が見えてきました。
自然科学には、裏付けがあります。
其の言葉で、仏教が語れれば、
仏教の、語ってきたことが、
一般の人にもよく分かるのではないでしょうか
だからこそ、仏教に現代科学の解釈の光を当ててみたいのです。

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