地球の裏側を旅行中の方から
メッセージを頂きました。
先回の議論は、科学といえるのかどうか、
科学というのは仮説をたて、その仮説が正しいかどうか
実験によって確かめることができることを云う という主旨でした。
私は「科学」が大好きです。
かなり理屈っぽいほうです。
それもあって、
英語が中学できらいになり
その結果大学にも行けなかつたので
日本の学校英語教育を逆恨みして
ブリタニカで英語教材のセールスをするとき
日本の学校英語の悪口を云うのが快感でした。
いわく
従来の日本の英語教育は、明治時代
海外の優れた文明文化を
取り入れることを目的としたので
外国の本が読めればよかったのです。
本を読むには
辞書と文法書があれば事足ります。
其の時、発音はどうでもよいのです。
例えばソレは、我々が中学で習った
漢文の授業と似ています
百聞不如一見
返り点をうって読む順序を変え
百聞、一見に如かず と読む
それでは、漢文は本来中国語なのですが
中国語でなんと読むでしょうか?
漢文の先生は中国語の会話ができるでしょうか?
(ごめんなさい、きっとできる方もたくさんいるのでしょう)
コレは、
パイウエン、プールー、イーチエン
と読みますが
そんなことはできなくとも、漢文の意味はわかるのです。・・
然し、会話ができなければ困るというので・・
ハイ分かりましたそれでは会話だけ教えましょうというのが
いわゆる英会話教室です・・
このへんでやめておきますが・・・
私は実際には英会話ができたわけではなく
英語の単語もろくに覚えていたわけでもなく
ただ、英語学習理論や言語に関する「科学」については学びました
そして其の「科学」の正しさについて、語ってきたのです。
例えば、自分が海外に留学し英語が話せる
というセールスエージェントがいます。
そういうエージェントは自分より英語ができないヒトには
強く云うことができますが
自分より、上手な人にはかないません。
コレは体験や経験のレベルで話しているからです。
ある事実は、事実であっても真実であるとは限らない。
ある人が、こういう体験をしたというのは事実だが
ソレが、いつでも全ての人に当てはまるとは限らない。
真実とは、いつでも、どこでも、誰にでも、あてはまることを云う
ソレが「科学」なのだから
「科学」を語る限り100%YESのはずだ・・
コレが私が「科学」が好きな理由です。
現在でも、「営業の科学」誰にでもできる営業ということ追求し
個人の経験ではなく経験から抽出される、法則を学び伝えようと
努力しています。
そしてかれこれ、40年
科学は真理を追求する手段として
仮説を立て、実験し、観測します。
其の積み重ねが現代文明です。
いつでもどこでも通用することが確認されたので技術となり
様々なものが生み出され使われています。
ソレはそうで、否定のしようがないのですが・・
これ以外に真理追求の手段が
有るのではないかと考えているのです。
我々の科学はその時まで集めたデータをもとに
解釈することによって理論を立てます。
其の理論を支えるのはデーターと解釈です。
データはその観測技術や取り方によって変わります
また解釈も人によって違います。
つまり、科学者というヒトは
其の原理的限界を自覚しているヒトです。
つまり自分は100%正しいというヒトは科学者ではないのです。
ところが、其のようなアプローチではなく
世界をある断面で切り取って、そこにある現象の数を数える
というようなやり方でなく
世界そのものをまるごと掴み取る、
観察するものとされるもの
と分けるのではなく
世界そのものになりきる
それが主客一如・という、仏教の方法ではないのかということです
つまり科学と仏教は違う方法で
「真理」を追求しているという考え方です。
次回は一つの例として、心の問題について
心理学的なアプローチと
仏教的なアプローチを比較してみたいと思います。

コメント