仏教と経営の調和

梅雨入りの季節、庭の 額紫陽花 が咲き出しました。
純白の花の 縁が淡いピンクできれいです。
先週、真面目な質問を頂きました。

「仏教は、欲を捨てよといい
 企業は利益を出せという
 稲森さんも、仏教的な発言もされるが、
 根本的なところで
 無理があり、
 結局は妥協なのではないか・・・どう思います?」

軽く言っているようですが、真剣な問いかけであり

根本的な問題と思いましたので

自分の中で、40年考えて、
答えに辿り着いたつもりですが

1周間、もう一度考えてみました。

釈迦が悟り
その悟りを得るためのトレーニング法として
布教した仏教は(最初期)

1、この世に超越的な存在は一切認めず、全ては、現象である
  と因果縁起の法則性によって説明し、
  因果縁起一体であるがゆえに全ては一つという真理であり

2、その真理を体得することを悟りと呼び、
  そこに至る方法を瞑想だけに限定し、

3、そこに至るための修行を集団で行うことにより
  相互に支えあい、
  更に一般人から余り物をもらう
  乞食活動によって実行するよう定めた。

全ては原因結果の連鎖であり、

見るもの見られるものの二元論ではなく
全ては一つであるから、
我が物などの区切りは本来存在しない

全ての存在は単独で存在することはなく、
他の物との関係で
現象として現れ、現象として消えてゆく。

全ての自然現象、生命現象もそのような相互の支えあいの中にある。

このことを観察の中から推論することはできるが
(万物は流転する・ヘラクレイトス)

然し、その中で人間の「意識」だけは、

「いま、ここ、」という世界の中心に常に有り
世界の観測をする原点「見るもの」であるために、
他の物に支えられなくとも、存在できるように錯覚する。

魂の不滅・吾思う故に吾有り・・・

そのために「自分」の「意識」の不滅をのぞみ

自分を延長するものにより自己を拡張しようとし
衣服、家・・家族・・ムラ・・国
どんどん所有を拡大し
変化に逆らおうとする。

其れは、苦悩の原因と成る
・・・ということは

欲を持つことを禁じているのでしょうか
利益を追求することを禁じているのでしょうか・・

私は、
長年、其のように思え、真剣に利益を追求することを
避けようとせぬまでも、
どこかブレーキがかかっていたように思えるのです。

私は、今

仏教は

「欲を捨てよ」とは言っていないと思います。
初期仏教は、後の仏教とはちがい
自給自足さえ認めませんでした。

全て、一般の人たちからの貰い物だけで
生活することを定めとしたのです。

托鉢、即、乞食です。

其れは無欲を教えたのではなく
全ては他によって支えられていると云う、

因果、縁起の法の体得のための実践教育だと思うのです。

もし本当に欲望を断ち切れというなら、

断食し、自殺すればよいのです。

然し、仏教は2600年生き続けいています。

仏教の説く全ては一体とは、空間的なものだけではありません。
ダイナミックな時間的なものです。

空間的に一体となるだけなら死んだものです。
時間的に一体となるから生きたものになるのです。

そして、世界は因果縁起の法によって

ダイナミックに発展してきました
また今後も発展展開していきます。

世界そのものがダイナミックに生きているのです。

我々人間は其の中に溶け込み、其の大自然と一体となって
進化、進歩を、手伝うのが、意識、知性の役割だと思います。

理性、意識、知能を与えてくれたのも大自然ですから
仏教は、人間の私欲の為に
自然法則を曲げるような行為を禁じたのです。

持ちきれないものを持ち、歩ききれないような、巨大空間を所有し
食べきれない食物を無駄にする
肥大化膨張した私欲そのものが、自然の法則に反しています。

一つの会社が、世界を独占することはありえません。
一つの生物が生態系を独占すれば自滅するのと同じです。
血液は人間にとって必要不可欠なものです
血液が三分の一失われれば人間は死んでしまいます。

然し、人間は血液の為に生きているわけではありません。
企業にとっての利益とは
人間にとっての血液のようなものだと思います。
利益がなければ倒産しますが
利益のために企業が存在するわけではありません。

そして、企業トップは私利私欲のためでなく
企業のため、社会のために利益を求めるのだと思います。
これが、仏教と経済に関する今のわたしの答えです。

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