科学と言うと実験室で再現できるものというのが一般的ですが、
実は三種類の科学があるということを
尊敬する先輩から教わりました。
川喜田二郎のKJ法はだれでも知っていますが、
その真髄はその三つの科学に有ります。
其の3つとは、
1、古典文献学的書斎科学
ベーコン・ガリレオ以前の科学はこのやり方で、先人の書いた書物
を読み、思考し、論理を頼りに、世界を理解解釈しようと
する学問です。
2、実験科学
仮説が事実かどうか、法則や原因を確認するため、観測・測定可能な
条件をつくり、実験観察し、真理を追求する実証的なやり方で、
この300年の科学です。
3、野外科学
文化人類学や、考古学など実験室ではできない学問で、自然の中で、
様々な現象を観察し、観察したことを総合し、仮説をたてる。
観察はするが、あくまで、自然のままです。
1、2、3の順で、成長して来たが、実は、一仕事を成し遂げるには
其の3つが共に必要だといいます。
つまり、仕事というのは結局問題解決という側面をもっていますが。
まず、問題を一般的抽象的に整理し、今まで使ってきた解決法が
使えるようにするには、
現場に行き、問題をよく観察し、類型化する・・野外科学
次に、過去の問題との類似性により、解決策を探し出す・・書斎科学
実際に解決策を案出し、現場でやってみて観察する・・実験科学
というように、理論・一般と現場・特殊をW字型に行き来するのです。
此のように、科学的というとき
客観的な観察ということは欠かせません。
特に定量的・数値化ということが大切です。
此の数が誰がやってもそうなる。
これが信頼できる根拠です。
此のことが、科学と仏教の違いです。
科学も仏教も、自然の摂理を 解き明かそうとします。
科学の方法は自然界に起こることを人間が観察します。
そして科学の進歩は、その観察の能力の進歩によるのですが、
そのことが、科学の限界を示すのです。
観察するということは、見るものと見られることが別であることを
要求されます。
また数えられるということは、それぞれが分離していることが前提です。
私たち、人間は、
自分の目で見て、手で触ったことが、確かだと信じています。
目で見る能力を高めるために
望遠鏡や顕微鏡を開発しその性能をどんどん高め
どんどん新しい発見をして来ました。
ところが、その、「ある地点から見るとこのように見える」
ということ自体が
全てを一瞬で把握することはできない
ということを示します。
科学は、此のように自分の外を見てきました。
仏教は自分の内を見ます。
瞑想です。
瞑想は、五感にたより、より良く見るのではなく
言葉に頼り、全てを分析し、定義し、区別し、思考するのではなく
全てを、ひとまとまりとして そのままとらえるのです。
例えて言うと
一本の小倉羊羹があるとき、そこに何粒の小豆の粒が入っているか?
包丁で切ってみると、その断面に小豆の粒を数えることができます。
切り方は自由で無数の切り方が考えられます。
これが実験の方法です。
今の我々は、此のような方法しかできないのです。
「今」、「ここ」から動けません。
ですから、人にも別の、角度から見てもらうのです。
仏教は、
羊羹を全体を一つとしてまるごと捉える
何故、そのことが、五感に頼らず
自分の内側を見ることにより
可能なのか・・
其れは自分が宇宙の一部だからです。
私たちは両親から生まれました
両親はその両親から
そのまた両親はと・・無限にたどることができます。
つまり途切れることはないのです。
最初の生命は、40億年前といいますが・・
おそらくその前のアミノ酸・・更に炭素・・
炭素は此の太陽系では創れないので、その前の超新星・・
そして150億年前のビックバン
全てつながっており一つです。
お釈迦様は7日7晩の瞑想を続け、その朝の明けの明星を見て
あの星と自分はひとつだと実感し悟りを開いたと伝えられます。
これが、仏教の真理の追求の方法なのだと思います。

コメント