アリストテレスは「オルガノン」という著作群の中で、すべての論理的な議論は、三段論法になると指摘しています。
(ベーコンの、ノブル・オルガヌムは、新しいオルガノンという意味です)
大前提(すべての人は死ぬ)
小前提(彼は人である)
結論(故に彼は死ぬ)
また、彼は、すべての論理的思考の基礎として3つの法則を示しました。
1,同一律 A is A 甲は甲である
2,矛盾律 A cannot be both A and not A 甲は非甲にあらず
3,排中律 A must be either A or not A 甲でも非甲でもないというものはない
現在も、この、アリストテレスの論理で、全世界の科学論文の99%は書かれ、審査されています。つまり、この論理によらなければ科学論文としては、落とされてしまうのです。
私たち日本人も戦後の教育では、西洋の思想を教育され、このような考え方が当たり前と思っています。
しかし、古来東洋ではこれとは違う思考法が展開されてきました。
これを、四句分別といいます。
あるものはAである(光は粒子である)
あるものはAでない (光は粒子ではなく波動である)
あるものはAでありかつAでない (光は粒子であり、かつ粒子ではない)
あるものはAでなくかつAでなくもない(光は粒子ではなく、粒子でなくもない)
という4つの状態について、それぞれの「あるもの」主体について考えるのです。
皆さんご承知のように、20世紀に入り、西洋の物理学は、革命的な進化を経験しました。上記の例に、光の波と粒子の二重性を使いましたが、
光速度が一定なら時空のほうが伸び知事三するという特殊相対性理論。
素粒子の位置と運動量を同時に特定することは、不可能だという、量子力学。
つまり、自然の摂理はアリストテレスよりも、東洋寄りといえるはずです。
機械的な思考は、人間が作り出したものです。
デカルトは、宇宙を巨大な時計に例えましたが、機械というものは、人間が何かの目的を達成するため、それの効率を上げるための道具です。
荘子に、機械心という話があります。
旅人が田舎道を通りがかると、畑の作物に、水をやっている老いた百姓がいます。
その水のやり方が、いちいち井戸に桶を下ろし水を汲みそのあたりに水を撒くというのを繰り返しているので、手間と労力が大変そうです。
「それでは、大変だ、今世間には撥ね釣る瓶という便利なものがある。それを使ったらよいと思うよ」
「いや、わしも、撥ね釣る瓶という便利なものがあるのは知っている。だがあのように、あまりに便利なものを使うと、心まで機械のようになってしまうのが恐ろしいのだ」
と答えたといいます。
結果だけを求めれば、そのプロセスを見失ってしまいます・・
西洋と、東洋。
今は人類すべてが、西洋になっている気がします。
来週もう一度「生命と機械」という話をしようと思います。


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