仏教の神髄は、「無我」という概念で、無我の我は、アートマンのことを言うという説明は、前回話しました。
アートマンとは、ヒンズー教の中心概念で、ブラフマンに対応する言葉であり、ブラフマンとは宇宙全体を統括する神のような存在です。
その神のようなブラフマンが、個人の中に宿るのがアートマン。それが個人の意識にあたります。この意識は肉体に依存せずに存在するので、肉体が滅びても滅びません。つまり、魂として不滅だと思われます。
したがって、輪廻転生は、ヒンズー教の概念で、仏教の教えではないはずですが、『私がある』というのが、人間自然な感覚なので、仏教の布教にも使われたと思われます。
『私はある』、『私はこう思う』というのは、西洋でより強く考えられています。有名なのが、デカルトの「われ思うゆえにわれあり」という言葉で、デカルトは精神は神の領域、肉体=物体は、人間の領域と考えました。
人間の精神は神の領域なので、大切にしなければなりませんが、物質はそうではないので、どう扱っても構わない、ということです。それを証明するために、デカルトは何度も残酷な、動物の解体実験をしたといいます。
そのように考えると、すべての機械は人間の欲望を実現するための道具であり、動物も、自然も人間に利用されるために存在します。自然破壊は人間のために当然で、大量採取-大量廃棄は必然となります。
仏教の無我というのは、仏教と他の宗教を区別する境界線のようなものです。そこで私が重要だと思うのが、「無我」というのは人間の精神「だけ」が、独立して存在しないということをいっているのではなく、この宇宙のすべての存在、太陽も地球もすべてが、独立して存在するものではありません。したがって、すべての生命も、植物も動物も独立して存在するものではなく、ゆえに、人間の意識も独立して存在するものではないと言っているのです。
私の仏教解釈は、宇宙のビックバンから今日まですべての存在が変化し続けています。川の流れのような、原因結果の連鎖であり、他によらず独立して存在できるものはなく、人間の、我々の意識も例外ではないということなのです。
それが、【諸行無常】【諸法無我】という意味だと思います。
そんなことはない、我はあるという、主張は人間精神の悲しい思い込みで、その意識を仏教では末那識といいます。
2600年前に克服された自我中心の考え方で、近代の科学は組み立てられています。
その結果が自然破壊であり戦争なのだと思います。


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