人事を尽くして天命を待て
天がいかなるものかについては、帰一協会などでも議論されるが、一部の宗教家は、天をあたかも人格ある霊体とし、人が手足を動かすがごとく世界を動かし、祈祷したりおすがりすれば、これを左右する様に信じている。
実際の天の命は人のこれを知りもせず悟りもせぬ間に、自然と行われていく物である。天命は人間がこれを意識してもしなくても、四季が順当に行われて行くように、百時百物の間に行われてゆくもの足るを悟り、これに対する、恭、敬、信をもってせねばならぬものだと信じさえすれば、「人事を尽くして天命を待つ』なる語のうちに含まるる真正の意義も、初めて完全に解しうるものと
思う。
湖畔の感慨
大正3年中国を旅行し、上海から杭州に行き、西湖という景勝地を訪ねた。そこに、岳飛の石碑があり、少し離れて当時の権臣秦檜の鉄像がある。
岳飛は宋末の名称で当時金に占領されていた首都燕京を回復しようとしていたが、奸臣秦檜は、金の賄賂を入れて岳飛を召喚し君に讒言し殺した。この二人が相対しているのは皮肉だが、今日岳飛の碑に参る人は、ほとんど慣例のように、碑に向かって涙を注ぐとともに、秦檜の像に放尿して帰るという。
死後において忠奸判然たるは実に痛快である。
これは実に孟子のいわゆる「人性善」なるによるのではあるまいか。これをもって人の成敗というものは、蓋棺の後に非れば知ることができない。この碑を見るに及んで感慨深さを覚えた。
順逆の二境いずれより来るか
順境、逆境というが、多くの場合、本人の資質努力の結果によるので、自分の不勉強を置いて逆境を嘆くというのは正しくない。余は相当なる知能に加うるに勉強をもってすれば、世人のいわゆる逆境などは、決して来たらぬものと信ずるのである。
しかし、そうとは言い切れぬ場合が一つある。
それは、知能才幹何一つ欠点なく、勤勉精励、人の師表と仰ぐに足る人物でも政治界実業界に順当に志の行われていくものと、何事も意に反して蹉跌するものがある。後者のものに対して、余は真意義の逆境なる言葉を用いたいのである。


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