論語と算盤 人格と修養 楽翁公の幼時

論語

渋沢は、楽翁公すなわち、吉宗の孫、老中松平定信を尊敬していたらしい。

論語と算盤の、人格と修養の最初にこの節があります。いわく、松平家の秘書となっている「発雲筆録」という、ご自筆により、いささか公のご幼時における一端をうかがうとともに、人格精神の非凡なるゆえんを紹介したいと思います。

いわば、少年のころを思い起こす自省録のようなものによれば、
彼は少年のころから記憶に優れ、周りが、褒め、将来の将軍とうわさされ本人もその気になっていたが、13~4歳のころはかなり短気で怒りっぽく、周りの世話係も、一生懸命いさめていた。

そこで、腹が立って仕方がない時のため、太公望の釣りをする絵をかけ、怒りの感情がわくときはそれを眺めて?にらんで、怒りを鎮めた・・

18歳のころはようやく、怒りを抑えることができるようになったといいます。

田沼意次の大老時代、このままでは、徳川の世は持たないと感じ、自分で、田沼を刺し殺すしかないと考えたと、この本にも書いてあるそうだから、本来かなり激しい気性の持ち主だったようです。

彼は、田沼の政治は「賄賂政治」と批判し、そのため、田安家から白河藩に養子に出され、白河藩主となるが、天明の飢饉のときの見事な采配で、田沼に代わり老中首座、将軍補佐となり活躍します。

渋沢もまた、若い時は、勤王の志士として焼き討ち事件まで起こそうとしていたので、そのあたり、共通点を感じていたようです。

まず、熱い思いがあり、そしてそれを制御することを学ぶ。

人はその食べ物でできているという、言葉がありますが、最近、人はその読んだ本でできている。と思うことがあります。

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