先週は、二宮金次郎の5常講、仁義礼智信。
封建的と言う人もいるでしょう。
しかし、問題は、これが果たして、
インドや中国でなりたったのだろうか?
ということなのです。
金次郎はまたある時、
貧乏な足軽たちのための互助会制度をつくります。
1両を貸付、期限内に返済すれば、
何度でも貸し付けるのですが、
返せない場合、その会に参加した、
その人のあとに書名している人10人が、
10分の1ずつ返済するのです。
借りた人は、関係ない人に迷惑がかけられないので、
必死に返済します。
私達はなるほどと思いますが、
これは、世界中でなりたつでしょうか?
仏教は、インドに生まれた釈迦の、
儒教は、中国に生まれた孔子の教えですが、
おそらくインドでも中国でもエリートのための
学問ではなかったのでしょうか?
貧しい庶民には縁遠い教えではなかったかと思います。
日本には、仏教、儒教伝来以前から、
聖賢の教えを学べる土台が
整っていたのではないかと思われるのです。
聖賢の教えとはなにかといえば、
仏教で言えば慈悲、
儒教では、仁
キリスト教では愛ということでしょう。
一番わかり易いのはキリストの言葉で、
汝の隣人を愛するなら、異教徒であっても愛するであろう
汝の敵を愛せ・・という言葉だと思います。
まさに、家族を愛し、隣人を愛するのは、
多分、ゴリラもチンパンジーもそうするに違いありません。
しかし、人類は言葉を持ち、社会を作り、
歴史と伝統=文化文明を創りました。
知識を学んで社会を維持するのは、
実学という教育だが、
社会を支え、お互いに想像力を働かせ、
いずれは我が身と、弱きもの、赤ん坊や幼児、
年寄、病んだもの、死に行くものをいたわるには教育がいります。
人は偉大なる大自然の一部だと
畏敬の心を養うのは、
人間のおごりを自覚するために、
また教育がいります。
それが、つまり、心学なのだと思います。
それには、食うや食わず、
人のものを奪わなければ死んでしまう、
という状況では思い至りません。
なぜ、日本人にはそれが備わっていたのでしょう・・
そこには分け合っても十分な物があるという、
豊かさの思想が必要なはずです。
日本の縄文一万年は、
豊かさを実現した社会であったのだと思います。
来週は日本人の心の豊かさを考えてみたいと思います。

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