論語と算盤 part22 常識と習慣

渋沢は言います。
常識とは、言語挙動すべて中庸に適うもので、
学理的に言えば
「知情意」の三者がそれぞれバランスを保ち、
非常に発達したものが完全なる常識といえる。

智とは、モノを識別する能力で、
これが不十分だと、善悪是非の区別がつかず
利害得失の鑑定ができず、判断を誤ることになる。

ところが、【儒教の柱】ともゆうべき宋の時代の朱子は
この智を大いに嫌った。
ややもすれば、術数に陥り、詐欺欺瞞に陥りやすい。

功利を主とすれば、知恵の働きが多くなり、
仁義道徳には遠くなる。

「虚礼不昧」とか「寂然不動」というような説を
主張、仁義忠孝を説いた。

そのため、孔孟教は偏狭に陥り、
儒教の大精神を世人に誤解されるようになった点が少なくない。

もちろん、いたずらに智ばかり勝って
情愛が薄ければどんなものか。

自己の利益を図らんとするに、
他人を突き飛ばしても、蹴落としても、
頓着しない、自己本位をどこまでもやり通す。

この矛盾を調和に導くのが情である。
このゆえに、この情の働きは、
人間にとってかくべからずものである。

ところがこの、情は、
最も感動の早いものであるから、
悪くすると動きやすい。
ここにおいて「意志」なる物が必要になる。

どれかに偏っては弊害がある。
この三者をバランス良く伸ばすべし・・

私は、どちらかというと、
渋沢より、朱子に、軍配を上げます。
動物にも情愛はあります。

人間に極度に発達したのは、「知」であると思います。
人間はその発達した「知」の破壊力を恐れなければなりません。

意志力は、情に流されることを制御するより、
知恵の力で全ての障害物を敵視することを、制御すべきだと思います。
そのような知恵が働くことが、
優秀だと思うこと戒めるべきだと考えます。

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