先週、Uさんという
元三菱地所のトップ営業マンだった人に会いました。
三菱らしからぬ(組織の三菱、人の三井という)磊落な人で、
退職するときに社長に声をかけられ、
『退職の感想はどうだ』
「いや、自分より能力のない人間を
上司としてタテなければならない苦痛から
開放されてスッキリしました」
『それは、俺のことか』
「失礼ながら、私は社長が、どんな仕事をされているのか知りません。
私が知っているのはそのへんの連中のことです」
・・・と言い放ったそうで、
この話は三菱地所の伝説になっているらしいです。
ベランメイの江戸っ子で、
この気性なら私と合いそうなので、
来年早々、仕事の付き合いを始めるつもりです。
このとき、三菱グループの序列を聞いてみました。
地所はけっこう上と聞いた覚えがあります。
トップは、日本郵船、次が、銀行、地所、商事あたりらしい。
これは、岩崎弥太郎の創業で、
最初が日本郵船だったからです。
論語と算盤を読んでいるので、
日本の資本主義を考えるのに
栄一と弥太郎の考え方の違いを知るのも意味があります。
渋沢栄一が大蔵次官に当たる職を辞し野に下り、
民間事業に専心するようになったのは、
明治6年、34才のときです。
その時、三野村利左衛門が
三井グループを仕切っていました。
彼はこの世の中には新知識が必要だとして、
栄一を自分の後任にしようとし、
三井の紋服を送ったりして、迎えようとしました。
その時、栄一は、
『私は三井の相談相手にはなるが、番頭にはならぬ』
と断りました。
しかし三井のためには、つくしてやろうと
親しくなったといいます。
一方三菱は「征台の役」ついで『西南戦争』
一躍日本海運界に、絶対的立場を確立します。
旧三井を圧倒する勢いがありました。
弥太郎は、自分ひとりの工夫努力で
これを勝ち取ったという自負がありました。
事業は唯一、人を中心として、
その独創により発展するので、
多くの人から金を集め、それらに意見をいちいち聞いていては
いわゆる『船頭多くして船山に登る』で、
事業がなるはずがないという信念でした。
渋沢栄一は合本組織といい、
多くの人の力を合わせ、資金も合わせ、互いに信頼し
ともに成功するという考えです。
これを「論語と算盤」といったのです。
つまり経済道徳合一主義です。
そうは言っても、栄一の人物、識見、才腕は、
人材主義の弥太郎が
是非欲しいというものでした。
あるとき、日本の実業界のことは
二人が組めば何でもやれると
岩崎から
お目にかかりたい舟遊びの用意があるからと
誘いがありました。
「その船の上で、合本主義でやらねばならぬ」、
「いや合本主義は成立せぬ。
もう少し専制主義で、個人でやる必要がある。」
という議論になり、
始末がつかないので、栄一は芸者を連れて引き上げました。
これがおそらく、明治7年くらい
1874年およそ150年前の話ですが
もしこのとき、渋沢栄一が三井の番頭になるか、
三菱の番頭になるかしていたら、
その後の日本の経済界は
大いに違うものになっていたことでしょう。
私は日本の資本主義は、
ヨーロッパアメリカの資本主義とは、
違っていたと思います。
その違いの根本に、
この渋沢栄一と岩崎弥太郎の船遊びの議論があります。
道徳と経済の一致が日本人のはずなのです。

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