機械的世界観から、生命的世界観への転換

機械的世界観とはなんでしょうか。
すぐ思い浮かべるのは、
莊子の天地編にある、撥ね釣瓶の話です。

ある旅人が、田舎の畑を通りがかると、
農夫が、畑に水をやっている。
少し離れたところに井戸があり、
その井戸に釣瓶を落とし、
引き上げて水桶に移す。
その水桶を前後に天秤棒に下げ、
畑まで運んで、畑に水をまく。
かなり重そうだし、
何度も繰り返すので大変そうだ。
旅人は農夫に声をかける。
「そんな事をやっていると、
大変だし、時間がかかる。
世の中には撥ね釣瓶という便利なものがある。
あれを使えば、今より随分楽に
水がまけるようになるよ。」
すると、農夫がいう。
「ご親切にありがとう。
だが私だって、撥ね釣瓶くらいは知っている。
しかし、あんな便利のものを使うと、
結果ばかりを求るようになり、
自分の心まで、機械のようになってしまうのが
恐ろしいので使わないのだ。」
機械のような心とはなんでしょうか。

天地には道具が溢れている。
今では、撥ね釣瓶のような単純なものは、
機械とは呼ばないでしょう。

テレビがあり、パソコンが有り、
プリンターがあり、アイフォンがあり、
車があり、エアコンがある・・・
言い出したらきりがないし、
それがある、清潔で、便利な生活が
文化生活というものだと、我々文明人は信じています。

もちろん、このような文明の利器をなくして、
原始の社会に戻せと言っても無理ですし、
意味があるとも思えません。

しかし、機械とはなにか・・を
考えてみることは、
生命とは何かを考えることに通じる気がします。
莊子の天地篇は、
2600年ほど前に書かれたと言われますが、
西洋では機械について明瞭に考えたのは、
今日の機械文明の基を築いたのは
デカルト・ニュートンだと思います。

デカルトは物質である肉体は、機械だとみなし、
人間の科学の対象になると考えました。

精神は神が宿したものなので、
神のもので人間の科学の対象になりません。

機械はどんな複雑なものでも、
それぞれより小さなより単純な部品に分かれ、
それを細かく分けていけば、単純になります。

そうすれば、どんな複雑なものでも、
単純なものの組み合わせてとして
理解できると考えました。

ニュートンはそれを受け、
宇宙の果まで、このような法則が支配し、
太陽も、地球も、月も、
そのような法則に従って動いている。
そのため宇宙もまた、
巨大な時計じかけのようなものだ
といいました。

近代科学はこのようにして発展しました。
目に見えて観測できる物質を対象とし
そのメカニズムを探求するため、
何がどのような力を
どのように与えているか見極めようとします。

いくつもの条件が重なると、純粋な法則、
メカニズムがわからなくなるので
できるだけ、単一の現象だけが
観察できるように実験室を準備します。

その条件を整え、記録し、
その条件さえ整えれば、
誰がやっても同じ結果が出る事を確認します。

その結果を人類の共有財産として、
様々な事実を積み上げ、実験し、
蓄積し、蒸気機関を発明し、電磁気学を開発し、
電球を作り、エンジンを作り、
発電所を作り、自動車を作り、
近代文明社会を築き上げました。
良いことばかりのように思えます。
西洋に始まった、近代科学による産業革命は
あっという間に世界を席巻しました。

19世紀の末には、世界中を、
西洋先進国、イギリス、フランス、ドイツ、
スペイン、そしてアメリカが植民地にしました。

その時期、独立を保っていたのは
全世界でわずか5カ国。
エチオピア、トルコ、アフガニスタン、李氏朝鮮
そして、日本だけでした。

日本人は、このままでは、
日本も中国のように、
西洋列強に蹂躙されると感じ、
大急ぎで西洋文明を吸収しました。

脱亜入欧という言葉が
その雰囲気をよく物語っています。

この頃には、誰も、
機械の力を疑いませんでした。

中国やインドは、自分たちのほうが、
西洋人より高度な文明人だという誇りがあったので
容易に彼らから学ぼうとせず遅れを取りました。

一時期はアジアで唯一、西洋機械文明を吸収し、
彼らに対抗できる勢力となったのが日本でした。

明治の末、渋沢栄一は
「論語と算盤」という本を出版しました。
「江戸時代に比べれば、
日本は随分豊かになった。
しかし、精神の方はむしろ
衰退しているように思える。
改めて物質的豊かさと
精神的豊かさを調和させねばならない。」
なぜ、そうなるのか?
機械とは、ある人間の目的を
実現するのに便利なように、
人間作ったものです。

イスは人間が座りやすいように、
机は人間が物を食べたり、文章を書いたり・・
そのためであれば、材質や、形はどうでもよいのです。

つまり目的のための手段は柔軟なのです。

この結果のための手段という
「機械的な」考え方に慣れてくると
目的が大事で、その実現のための手段はどうでも良い。

大して重要ではないので
うまく行かなければ、
どんどんやり方を変えれば良いとなります。
そして、人間もまた
何かを成し遂げるための手段とし
て使われます。

工場労働者、消費者というのは、
資本家が利益を上げるための
手段でしかなくなります。

この考え方はあらゆる分野に浸透し、
人間の考え方を支配します。

何しろ実験科学の正解は素晴らしかったので、
そのやり方が他の学問にも応用されるのです。

科学は誰がやっても
同じ結果が出ることが大事なので、
客観的でなければなりません。

客観的とは、観察者は、
観察されるものと距離を取り、
影響を与えてはいけないということになります。
このような考え方が、
心理学、教育学、経済学、経営学など、
人間の精神が重要な意味を持つ、
学問分野にも応用されました。

機械は外から力を加えなければ、動きません。
機械は分解し、メカニズムを確認し、
故障した部品を取り替え、また組み立て直し
動かすことができます。

使ううちに消耗する部品や電池は、
消耗したら取り替えます。

取消の効く部品は、
消耗するまで使い切るのが合理的なのです。

取替の効く従業員は
消耗するまで酷使されるようになります。
人間の手段化、これが現代の病です。

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