現代物理学と四句分別について説明すると、
先週のメルマガで書いたので、
説明しようと思います。
その説明は何のためかというと、
現代の世界の諸問題が、
古くなったデカルト・ニュートンのパラダイムで動いていて
それが、人間中心、自己中心・・
自分さえ良ければいい、今さえ良ければいいという
浅はかな人類の行動を、
『科学的合理的な』裏付けとして、
支えてしまっていると言いたいからです。
知識としての現代物理学を解説することや、
四句分別を解説することが重要ではないのですが、
避けて通れないので
なるべく深入りしないように概説します。
それに、私の現代物理学というのは、
ニュートンの物理学を古典物理学としての
アインシュタインの相対性理論、
ボーアの量子力学などのことで、
現代の社会では不可欠な技術のレベルになっている常識的なものです。
一般相対性理論の計算による、
重力の時間に対する影響はものすごく小さな物だと思われがちですが、
人工衛星からの地上のスマホの位置情報を調べるのに
この補正を入れないと、数百メートルもずれてしまい、使えないと言うし、
量子力学を使わないと、スマホの中のLSIが設計できないという。
これらの理論が発表されたのは、100年以上前なのですが、
その理論が、現代のインターネット時代の基礎技術になっている。
しかしながら
かつて(ひょっとすると今も)、旧約聖書の教えが人間の生き方を規制したように
現代はデカルトニュートンの思想が
世界を規定しているように思えます。
量子力学では、位置と運動量は同時に測定できません。
光は波であり同時に粒子でもあります。
一般相対性理論では、
大きな重力は空間を曲げ、時間を伸び縮させます。
この話は、私達の常識を超え、
アリストテレスの論理学を超えます。
四句分別は
インドの論理学で、
特に龍樹以降の大乗仏教でよく使われます。
Aである
Aでない
AでありAでない
Aであるのでもなく、かつないのでもない
という4つの思考法を汎ゆるものを対象に考えることで、
量子力学とよく似ています。
ボーアやシュレディンガーはそれで大いに驚いたのです。
ここで考えられているのは、
物質ではなく生命のことだと思うとわかりやすい。
生命とは何かとギリシアの王に尋ねられた僧が
『王よ、目前に燃えるろうそくの炎は1時間前のものと全く同じか』
「僧よ 全く同じではない」
『王よ、それでは全然別なものか』
「僧よ、全然別なものでもない」
『王よ、生命とはそのようなものだ・・』と答える。
ろうそくの炎は、物体ではなく現象であり、
常に変化しています。
よく考えれば、我々の生命も、
酸素を取り込み全身に送り、
燃焼させ、炭酸ガスを吐き出す・・同じことです。
燃焼している炎が、一時間前のものと、
同じでもあり同じでもありません。
それと同様、私達も
一時間前と同じでも有り同じでもありません。
古典物理学は、物質のエネルギーによる運動を説明します。
ところが、命について、説明するには適切ではありません。
自然というのは、
植物も、動物も(我々も)生命のことです。
物質はその構成要素に過ぎませんが、
その構成要素も、突き詰めれば
原子を構成する、クオークになり、
それらは常に振動しているといいます。
私達が自己中心になりやすく、
人間中心になりやすいのは、
私たちの精神が、世界を観測する原点であり
原点である私達の精神は、
世界と関係なく存在しているように思えることによる
『我思う故に我あり』
というのは、とても自然な感想なのです。
しかし、私達の魂は不滅ではありません。
命は必ず終わります。
しかし、その事実を私達の精神が受け入れるのは難しい。
真実は、私と思っているのは波であり、
波はやがて静まります。
生命が現象なのだから、我々の精神も現象なのです。
私達は自然と対立するのではなく、自然の一部です。
しかし、波が消えてもそれは海です。
海とは自然の摂理そのものです。
そのことを体感、実感するのが、修行というものだと思います。
私は、21世紀は、従来の科学を取り込み、
含みながら、このような考え方を整理する必要があると考えます。

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