平岡梓は、三島由紀夫の父です。
先週書いたように、
三島の考えがどんなものか読んでみました。
代表作の「仮面の告白」や「金閣寺」は
なんとなく敬遠したいので、
エッセー集「若きサムライのために」という、
昭和44年7月初版の作品を探しました。
その中の、羞恥心という文章が面白かったです。
そこに、明治の男として、父親がでてきます。
戦前から農商省の役人で、明治の人ですが、
平岡公威こと父は、三島由紀夫のことを、
大変に溺愛していたことが
その数々の文章から知られます。
特に、三島が戦争末期に
徴兵検査に合格し軍隊に入る直前、
母親の風邪が移り、咳をして検査を受けました。
結核と誤診され、
徴兵を免除されたときは、
軍部の門を出た途端、
三島の手をとって走りに走りました。
後ろを振り返りながら、いつ、
「あの検査は間違いだった、入隊おめでとう」と
「あの検査は間違いだった、入隊おめでとう」と
追いかけてこられるのが怖くて、
走って駅まで行ったといいます。
確か、三島が20歳くらいですから、
親父は51歳のはずです。
三島の考えがどんなものか読んでみました。
三島の妻が最初のお産をしたとき(昭和34年)だといいます。
「私はいつ生まれるかと
ヒヤヒヤしながら病院につめ、
いよいよ子供が生まれたときには
初孫の誕生を父に知らせるため、
何度も赤電話をかけながら、
十円玉を入れるのを忘れて、
電話が通じなかった。
そして、やっと十円玉を入れて
電話が通じたとき、
父の思いかけない不機嫌な声に驚かされた。
父は少しも初孫の誕生を
喜んでいないように思えたのである。」
「あとでわかったことだが、
父は明治生まれの男らしい、
実の古風な羞恥心を持っていた。
自分の嫁の出産に息子が病院に行くのさえ、
恥ずかしいことであった。
病院からあたふた声で電話をかけてくるのは、
もっと恥ずかしいことであった。
妻のお産のときには、
日本の男はお腹の中で心配しながら、
友達と外で飲んで歩くか、
あるいはそしらぬ顔をしているべきであった。
それは、女に対する軽蔑とは違って、
むしろ純女性テキ領域に対する恐れと、
おののきと、遠慮と、反抗から生まれた
男のテレかくしの態度であったと思われる。」・・・
この文章を書いている三島が、若く感じます。
三島の文章を読んでいると、
彼の美学に、死というものを実感し
真剣に向き合いっていることがわかります。
この文章が書かれたのは死の一年前ですが、
もちろんこの頃から、何に命をかけられるのか
真剣に考えていたに違いありません。
三島の死んだ後、
この父親は三島との思い出を出版しています。
今度はそちらを読みたくなりました。

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