主客一如 part2

無我という事柄を得心した先に、
主客一如(しゅきゃくいちにょ)
ということがある、と前回申しあげました。



まずは、無我とは、
すべての「もの」は『こと』である
ということから始まります。


私達の普通の感覚では、
パソコンという「もの」があり
パソコンでメルマガの文章を打つという「こと」があります。



我々の世界では、そのような「もの」と「こと」の
組み合わせで成り立っているように思えますが、
ところが、よく考えてみると、すべての「もの」は
やがてなくなります。



目の前に一輪の花が咲いていても、
いずれ枯れて朽ち果てます。


頑丈にできているように見えるコンクリートの建物も、
鋼鉄製の車にしても・・
いずれ、錆びて、壊れ、朽ち果てるのです。



つまり、「もの」に見える、
固定し変わらないように見えるものも、
時間の単位を1時間から1千年に変えれば、
ただの現象です。(つまり「こと」なのです。)



これがこの世の全ては、無常であり、
他によらず、
独立して存在するものはありえない
という、仏教の根本です。



すべては原因と結果の連鎖である。
種は原因であり、花は結果です。
このことを、『因果』といいます。


そして、種があっても、水分や太陽の光がなければ、
つまり条件が整わなければ、花は咲きません。
この条件を、『縁起』といいます。



この世界は『因果』と『縁起』で成り立っているのです。



さてここからです。



この世の全ては、単独で存在するものはなく、
他の存在に支えられている。
まるで、織物の柄のように、
あるいは網の目の広がりのように・・


これは空間的にです。


それでは、時間的には?


全ては原因と結果の連鎖ですが・・
実は啐啄同時(そったくどうじ)という言葉があります。



ひなが卵から孵る時、ひなは卵の内側から、
親鳥は卵の外から、
同時にからを破るのです。


同時です。



間髪を入れずという、禅語があります。
髪の毛一本のスキもない、同時なのです。



原因と結果と言うと我々の常識では、
時間の前後があるようですが・・



仏教では全て、「同時」なのです。
ということは、全ては一つなのです。



これが、一如です。



時間的にも、空間的にも、
限定することのできない一体のもの・・




主客一如とは、見るもの見られるものが、
分かれる前の状態を言います。



仏教のすごいところは、空間だけでなく、
時間も超えて体感しようとするところです。



時空を超えることを体感すれば、それは正に
不死を得るということになるでしょう。

コメント