主客一如

仏教の根本概念に、無我ということがあります。
この世界には自ら他に頼ることなく、
単独で存在できるものは何もない。



全ては、他のものに支えられて存在する・・



縁起の法とか、因果の理と言われます。
そして、他によって存在する「もの」として、
私という存在も含まれるのです。



デカルトは自分が観察するすべての「もの」は、
自分の錯覚かもしれないと疑いましたが、
その疑っている自分が存在することは、否定できないとしました。




釈迦は、その「自分」という存在も、
他に支えられて存在する「現象」であることの
例外ではありえないとしたのです。




「我」が否定されるので、「我が物」も否定されます。




ヒンズー教ではアートマンとブラフマン
ということが言われます。




ブラフマンは、いわば、キリスト教やユダヤ教、
イスラム教の「神」のような存在で、
宇宙の真理そのもの、
あるいは、創造主のような存在です。



アートマンとは、その存在の個人への反映とか、
個人に宿る魂というようなことでしょうか。



そのヒンズー教から生まれたと思われる仏教は、
そのブラフマンもアートマンも否定しました。




そのようなところをみると、仏教とは
「何かの存在を信じない」と成立しない、
という意味では
信仰の対象、「宗教」ではありません。



見事なぐらいに、現代科学の知見に一致します。
何かを信ずる必要はなく、
ありのままを観察するだけなのです。




私達の意識は、目が覚めると現れ、眠ると消えます。
また、ノックアウトされる、
脳に強い衝撃を与えると消えます。
気絶するのです。



意識が「私」であるわけですから、
意識は無意識の上に現れる、脳という
物理的な存在に支えられる現象です。




最近の脳科学では、
意識が働くときに脳の中のネットワークが働きます。




何処かに、意識の場があるのではなく・・
ネットワークが働くのです。
デフォルトモードネットワークと名付けられています。




パソコンのハードが壊れると、
ソフトは立ち上がることができません。




意識は物理現象に支えられる現象であるという説明は
現代人なら、それはそうだろうと認めるはずです。



それが諸行無常、諸法無我、
2600年前の、釈迦の洞察なのです。




それでは、この自分は単なる現象で、
やがて消えていくしか無いものだということでしょうか?



仏教が、そのような虚無的な思想であれば、
すぐに、命を失ったでしょう。




よく使われる例えが、波と海です。



波は高いとか低いとか、大きいとか小さいとか、
丸いとか三角とか・・
色々違いを言いますが・・やがて鎮まります。



波は実は海なのです。





我々の意識は、静まれば、本来の海に戻るのです。



我々の意識は、生きているときに、
海と一体であることを感じることができます。



それが、瞑想の働きです。





今回はここまでにします。


主客一如の話は、この先にあります。

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