八正道について

八正道については、何度かこのメルマガで紹介していると思いますが、


八正道は中阿含経に釈尊(紀元前463~383)の

直伝と伝えられています。

東南アジアの上座仏教ではパーリー語によるアーガマが漢文に翻訳され

「長阿含経」「中阿含経」「雑阿含経」「増一阿含経」とされたとのこと、


初転法輪、つまり、釈尊の最初の説法で説かれたと伝えられます。


中阿含経の中にある「聖求経」に、中道と八正道があります。

中道、とは、

1欲楽・下賤の道、

2自ら苦しむ苦行の道

の両極端を離れることを意味したのですが、

後に、有無の二見、

断・定の二見を離れるということになりました。

有無の二見とは、存在が「ある」か、「ない」のどちらかだという考え方で

断・定の2見とは、全く否定するか、常に肯定するかというような

意味です。

このことは、生命を考えると、

いつもあるわけだはなく、無いわけでもない

と理解することができます。


後に「清浄道論」5世紀ごろ

「ブッダゴーサ」という人によるによる上座部の教学の集大成があり、

その中で、八正道は次のように説かれています。

正見  四諦を了解し、因果縁起の法を理解する
正思惟 因果縁起により世界は一如でしかありえないとして物事を考える
正語  人間の言語は世界を分節しているので、捨てなければならないことを
    了解する
正業  全ては一体なのだから、殺生などからの離脱
正命  全ては一体なのだから自分の生活のために自然界を傷つけない
正精進 精励・努力、日常の生活
正念  今ここに閉じ込められているのは、五感に頼るからと気付く
正定  自らを無限小の今ここの点とするよう集中する

というように、順序を踏んで、自己の境地が悟りに至る

修行法として説かれています。


さて、仏教の根本思想は無我にあります。

コレは、ユダヤ、キリスト、イスラム経には勿論

ヨガの思想にも、ヒンズー教にもありません。

あえていえば、老荘に、近いものがありますが、

とにかく

自分など存在しないというのですから、

人間にとってコレほど過激な思想はないでしょう。


もし自分のものと言うなら、自分の思うとおりになるはずだ

ところが、

五蘊全てそれぞれが、自分の思うとおりにならない、

つまり我ならざるもの・無我である


全て無常、変転するものを止めようとすれば苦である

常一主宰 固体的存在はありえない。

三法印 諸行無常・諸法無我・涅槃寂静

コレがあれば、仏教であり

コレがなければ仏教ではない。


その根本が無我です


そのことをまず、理論的に納得することが

仏道修行の始まりであり、八正道の第一なのですが、

現代人にできることでしょうか?

我々の現実に役立つでしょうか?

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