現代の理性中心の時代が、様々な行き詰まりを見せているなかで、
現代の科学技術の思想的な基礎となっている、
デカルトの『我』と、仏教の『無我』
デカルトが方法序説という有名な書物を書いたのは1637年
彼が41歳の時でした。
今からおよそ、400年前、
当時はキリスト協会が世界を支配していました。
その中で、デカルトは近代的な思考法を確立したのです。
方法序説の、我思う故に我あり という有名なフレーズは
それ以前の彼の真理の発見法の結果生まれたものです。
彼はホントのことを発見するため、
1、証明的に真理と認められるモノしか認めない
2、複雑な問題を分割する
3、順序に従って考える
4、見落としがないか枚挙する
という思考法を提案し、その中で、先ず、真実と言われている
ことも本当にそうかと、あらゆることを疑うことから
始めます。
目の前に、一輪の花が咲いているとしても
それは、実は幻かも知れない、
夢を見ているのかもしれない・・
このように、あらゆることを簡単に信じたりせず
疑っていくのですが・・
そのうち、疑っている「自分」がいることは疑えない
従って、これが最初に証明された真実だと
結論するのです。
その一節に
フランス語で書かれた方法序説を、ラテン語に書き直した他の人が
Cogito ergo sum という訳を与えたのです。
これを、日本語にまた翻訳されたとき、我思う故に我あり
となりました。
つまり近代思想は「自我』から全てが始まるのです。
それに対してブッダは、ゴータマ,シッタルーダ 35歳のとき
今からおよそ2600年前、全くちがう結論を出しました。
デカルトが中世のキリスト教社会に生まれたのと同様
ゴータマの時代のインドは、バラモン教に支配されていました
現代はヒンズー教と呼ばれ、
このバラモン教は、
アーリア人種が、インドの先住民を征服した
紀元前1300年頃、成立した宗教で
ブラフマンという宇宙全体を統べる神と、個人の中にある
アートマンという自我を認める教義です。
その中で、4つの階級、バラモン (僧侶)
クシャトリア(王族、武士)
ブァイシャ (庶民)
シュードラ (奴隷)
更に階級外にパンチャマ(不可触賤民)という厳然とした
階級社会が存在します。
その中で、ゴータマは世界について瞑想します。
目に見えるもの
耳に聞こえるもの
手で触れるモノ・…全て実体ではないというのは
デカルトと同じですが
世界は、時間とともに刻々と移りゆく一体のものであり。
他のものによらず、独立して存在するものはなにも無いと
結論します。
その中で、自分が自分であると信じている
自分さえも
独立して存在するものではないと退けるのです。
諸法無我と言われます。
その結論から当然、階級も否定されます。
この考え方は当時の支配階級であったバラモンたちに
とんでもない危険思想と捉えられたはずですし、
また自我が存在しないという思想は現代でも
通常の人間の意識に反するものです。
自我すら存在しないとすれば、人間の判断とか
自由とか責任という、民主主義の基本となるものが
成立しなくなりますから
まさに天地がひっくり返るような思想です。
それでは、何が存在するのかというと
全てが時間的にも空間的にも限定できない全体として
存在するということです。
ゴータマはこの結論に到るとともに
自分と宇宙が一体であるということを実感する
境地を楽しみつつ、
この教えを説くべきか迷います。
自我中心、欲望中心の人間社会の現実と
あまりにかけ離れた思想だからです。
現代の科学は
人間の脳の研究から
ごたまの無我の説が、正しいことを証明しつつあります。
次回そのような科学的な知見を紹介します。
デカルトとブッタ
仏教
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