科学的に仏教にせまるということ

科学の科という字は、枝という字

宗教の宗という字は、宗(むね・もと)という字

といったのは安岡正篤です。
また、鈴木大拙は、このようなことを言っています

一輪の花がある、
科学は、その周りをぐるぐる回る
生物学的に
植物学的に、
化学的に、
物理学的に、
光学的に、徹底的に分析し
その花に、「ついて」記述する。
・・そしてこの花のことは調べつくされた・・

これ以上
この花については、なにもいうことは出来ないと宣言する。

ちょっと待て、生命は、そのようなものではない。

それはあたかも、網で水を掬うようなもので、

いくら網の目を、細かくしても、その隙間から
一番大事なものがこぼれ落ちる。
現代の、藤田一照は

仏教は人間の日常生活すべてを含む
仏教は人間の日常生活より大きいのだからといい、

また、

無と言い、空と言い、真如と言う
ソレは言葉では表すことは出来ない。

真如とは、時間的にも、空間的にも、限定できないモノを言う

(自然の一部を、人間の便利のために切り取り名付ける
 ソレが言葉だから)

つまり、仏教とは自然を、自然のまま、
分けず、名付けず、分別せず、マルのまま飲み込もうとする
そのような考え方であり
それをを可能とするための

修行法だと言えましよう。

ですから、不立文字となるのです。

普通の人間は、あるいは科学は

自然をまるごと理解し、飲み込むことを、諦めたのです。

科学は、自然の一部である人間が、

自然を理解しようとする、

つまり

有限が、無限を理解しようとする、

けなげともいうべき、冒険です。

人間の知識、知能、というのはある観点で、
自然を限定し、ある切断面で切り取り、観察するのです。

このことが、科学の確実さを保証するものであり、
同時に、科学の限界を定めるものでも有ります。

その切断面をどのように切り取るかは
その科学者の自由です。

然し、同時に他の切り方が有り
そのほかの、切り方では別な真理が発見されるかもしれない
ということを承知しています。

だから切り方と、条件を明確にするのです。
我々は、この目で見たことは確かだと信じています。

然し、人間の目に見える光は限られています。

紫外線、赤外線は存在するのですが、見えません。

我々は、この耳で聞いたことは確かだと信じています。

然し、人間の耳に聞こえる音は限られています。

超低周波も、高周波も、存在するのですが、聞こえません

更に重要なのは、時間の認識の仕方の限界です。
時間には、過去と未来があることは
分かるのです。

だから、人間は目前にないことで悩みます。
やがて死ななければならないということがわかるので、
今はなんともないのに悩むのです。

過ぎ去ったことで悩みます。
あんなことをしなければ、よかった。
今更どうしょうもないのに悩みます。

しかし、その未来を考えることが出来るために、

決まったパターンの動物の行動を予想し

罠をかけ、獲物にすることが出来たのです。

言語は、シミュレーションのために、

将棋の駒に「名づけ」、「動かして」見るように

誕生したのでしょう。
我々は現在経験できることを、基準にしてしか
正確に観察し、其の観察結果を共有することはできないのです。

然し、時間は刻々と経過するので
その観察は、何月何日と書かなければなりません。

そして、その記述をした人間の観察能力に限定されるので
その人を記述しなければならない。

そのような人間の限界を知っているということは
絶対の真実があるのではなく
人間の知りうる真実は、条件付きの真実であるという

限定付きで

互いに話し合い、理解し合えるわけです。

私は、その限界を知っているとういう意味で
科学的でありたいと思うのです。

釈迦は無記ということを示しているのですが、
そのことの説明は次回に譲ります。

まさにこの態度は「科学的」であると思います。

私は、釈迦に比べて現代人が有利なのは、
現代の科学が彼の時代に
比べ
進化していると思うからです

釈迦に比べれば平凡な、しかし、無数というべき人たちの
生涯をかけた苦労の結晶を、
共有し、積み重ね

現代文明を作っているのです。

相対性理論も、量子力学もなかった時代に
その内容ともいうべきことを語り、
(色即是空・空即是色とか、主客一如とか)
スーパーコンピュータを使わなければ
計算出来ないような
気象の予測など、
複雑系の現象に当たるようなことを語る。

釈迦にしても龍樹にしても、まさに超人としか
思えないのですが、

我々には、現代の科学のチカラがあるのです。

だから、その光で、仏教を説明することに挑戦し
仏教を謎ではなく、
神秘でもなく
誰でも納得できるようにしたいのです。

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