9,11の特別会の報告の最後です。
最後のレポーターは、西宮鉄二さんの「居合道における平和思想」
でした。
面白かったのが、「居合」と言う言葉の由来です。
「居合」に対する言葉は、「立合い」だそうです。
「立合い」と言うのは、戦うことを前提として、向き合うことだそうです。
相撲の「立合い」もここから来るのでしょう。
それでは、居合とは、
戦うことが前提としない、
日常の生活の中に「居る」ときに、突然刀を抜かねばならない
状態の時のための技だそうです。
つまり平常の用心です。
勝負は「鞘の内」というというのは、
抜いた時には、勝負が済んでいるということです。
そして、鞘の内にあるうちに、充分相手に状況を理解させ、
鞘の内にあるうちに、相手に戦う気をなくさせるのが、
最上の、勝ちでしょう。
コレはセールスも同じです。
剣と仏教というと、
思い出されるのが、宮本武蔵や柳生但馬に
影響を与えたと言われる沢庵和尚の
「剣禅一如」です。
今日の八正道は、正命ですが、
命をつなぐため、
恥ずかしくない仕事をし、規律正しく生きるというのが、
基本的・一般的な説明です。
実は、この「剣禅一如」と、「正命」の2つは
不思議な気がしていたのです。
平和主義の塊のような仏教がなぜ、
剣の世界、殺生を容認するのか?
原始仏教では、商売はおろか、
自給自足の畑を耕すことさえ、
禁じていたはずなのに、
〈社会の余り物でのみ生活するように
托鉢と言う乞食を、釈迦自身も行ったのです)
なぜ最初期の仏教の八正道に、
仕事の仕方がでてくるのか・・
最近こうなのかな?と、思うようになりました。
「コレハ我ガ物」と思い、自分の知恵、力を頼んで
自我を拡大しようとするのが、自然の摂理から遊離した
人間性の宿命です。
そうであれば、暴力で、人を襲うということも、
人間社会では
当たり前に起こるでしょう。
其の時に、其の人を制し、其の人が自然の摂理の前には
無意味、無理と言うことを気づかせるには
それに対する備えがあるべきだということです。
正命というのも、金儲けのことではなく
使命のことでしょう
人がこの世界に生まれ、
そのような理性をもつことも
宇宙の摂理のうちならば、
その理性を、宇宙の進化のために使うのです。
人は、その人生の最も充実した時間を仕事に使います。
その時間が有意義なものでなくてはならないはずです。
与えられた命を、
意味あることに使う
これが正命のはずです。

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