仏教と科学

仏教と科学は全然かけ離れたもののような感じですが、

私は仏教の持っている、とことん、理詰めの感じが好きです。
(特に初期阿含経など)

ただ、仏教が宗教であるのは、ただ一点
ゴータマと云う35歳の青年が

「悟り」という体験をした。
その体験は神秘的なもので、

素晴らしいものだが、

その境地を達成するには、

修行実戦が必要だということです。
私はこの修業実戦体験ということは遠巻きにして

あえてふれず

その周辺にある、様々な「思想」に興味を持ってきました。

そしてその説くところが合理的で

非論理的なところがないのが、受け入れやすいのです。
その中心にある思想は

全ては「もの」ではなく、「事」だという理論で

コレは現象論という哲学だと思います。

我々の世界は、縦、横、高さの三次元に

時間を加えた4次元で構成されているように思えます

(というのは、最近ヒッグス粒子の発見で実は11次元だ
 ということがわかつてきたようです)

現実の世界には時間があるのですから
時間が存在しない世界を我々は想像することもできません。

そして、仏教はその当初から、全ては、時間とともに
変わりゆく相互関係で
他によらず独立して不変のものはなにもないと、説き

科学は2600年かけて
すべての物質は原子から
原子は素粒子からなり
素粒子は相互の関係の中で、様々な原子分子をつくり
その新陳代謝が現象として我々の目に見えるという

事実を発見してきたのです。
色即是空 という有名な仏教用語がありますが、

「色」を「物質」 「空」を「現象」と読み替えると

光は、粒子でも有り、波動でもあるとか

E=mc” 物質はエネルギーであるという近代科学の語るの
と同じことになるはよく知られています。
それでは、何故、2600年前に

ゴータマはなんの、観測装置も実験器具も持たず、

このような見解に至ったのでしょうか?
同じ頃、ギリシアにはソクラテスが、中国には孔子がいて
後の世に大きな影響を与える
偉大な思想を語っていますが・・

その内容には、宇宙の構造について解明するような言説はありません。

私は釈迦の悟りは

瞑想によるものであり
五感により、現実の目前の時間空間に限定され
拘束されることから離れ

五感を離れ、純粋意識となると、現在の時間空間を離れ
宇宙の始原まで
一体のものとして体験するのではないか

と推測しています。
私は中学生の時、複素数平面を自分で発見したと思ったのに
なん百年も前にガウスという人がとっくに発見していたことに腹をたて

それならと、時間軸に直交する虚時間軸を設定し
「現在」が光速の範囲の内側で、無限の広がりを持つという
理論を展開しました。
つまり、悟りの瞑想というのは
五感に頼らず、深く自分の内側に潜り

時間軸を肉体的過去に遡るのではなく
現在の時点に直交する虚時間の時空を体感することではないか

釈迦が瞑想しているとき、近くに落雷があっても全く動じなかつた
という話があります。

藤田一照さんによると、突然 シーーンという静かな感じで
気持ちが良いと言います。

この感覚体験はどのような喜びも超えるもののようです。

素晴らしい家に住んでも、おいしい物を食べても

それは結局、五感を通じて感じるものです。

物欲を捨てるのではなく
物欲より、素晴らしい感覚を体験するということかもしれません。

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