先週のメールに、ある質問?が入りました。
デカルトは、真理追求の方法を考えたので
魂の救済法を考えたわけではない。
デカルトの手法で、救われないとしても
ソレは音楽では腹が膨れないというのと同じで
音楽では腹が膨れないから、
音楽は無意味だという
主張に等しいのではないか・・
みなさんはどう思われるでしょうか?
この議論に、一照さんに参加してもらえないのが残念ですが、
一照さんご自身はデカルトの「我」を例にとって話してはいませんが、
会場でサインをいただいた「アップデートする仏教」の共著者
山下良道さんは、東京外語大仏文科時代に「方法序説」を勉強し、
同様の問題を論じています。
我々現代日本で教育をうけた 我々は、
デカルト・ニュートンの
考え方のほうが、
道元や、親鸞の考えよりも親しみがあると思います。
明治の頃から一高寮歌に歌われるように、
デカンショ、デカンショで半年暮らす・・後の半年ゃ寝て暮らす
よ~い・よ~い・、デッカンショ・・という
デカンショというのは、デカルト・カント・ショーペンハウエルです。
それでも戦前は、漢文による四書五経の教育はあったはずですが
戦後の教育では、老荘も儒教も仏教も学問としては学んでいないと思います。
真理を追求する方法として、デカルトは「方法序説」を表しました。
その方法は、あらゆる、事柄を疑ってみることにして
完全に証明できないことは、根拠にしない
複雑で大きな問題を、精密に分解し、小さく単純な部分に分け
単純なものを組み合わせて複雑なものを作り上げ
最後に完全に列挙し、広範に再検討する・・
そして、疑っている自分が存在することは疑えない
ということを出発点にするというものでしょう
これに対して
仏教という体系は
真理を追求するのに、
実験と観察によって外の世界を研究するのではなく
真理でもある、
自分自身の内側を探索すると言う方法を
説いています。
自然こそ真理であり、
我々自身も自然なのです
そのマニュアルが、八正道で
まず、この世にある全ては 山も、川も、空も、植物も、動物もそして
人間も、ものではなくこと・・現象である
原因と結果、エネルギーと反応、そして結果がまた原因となって
現象が続く
従って、部分と全体一体である
何ものも、他によらず、他に支えられず、
単独で存在し続けるものは
ありえない。
というのが・・釈迦の第一原理です
そして、あらゆる生物が生まれて死ぬのも、
生物が現象であるからで
動物もその動物の一種である人間も
例外ではありえない
従って、人間の肉体がやがて滅びるのは、
周囲の人間を観察し
誰もが、否定できないが
その自分の心だけは、
観察の中心にあるので
他によらず存在するように思え、
不老不死を願い、魂の不滅を願う
ようになる。
これが、すべての苦悩の原因である
それでは、自分の心や魂もやがて、死んで「無」に帰する
人生の結論が死でしかなく、無ならば、
富も栄光もあの世に持ってゆくことはできず
なんの意味もないという、
虚無主義、ニヒリズムになるしかないのか
仏教はその現実を直視しながら
そうではなく
我々の魂や意識も「現象」なのだから、「原因」がある
その原因と自分の意識は一体のものなので
ソレを実感すれば、無限の安心が得られる
我々は孤独なのではなく
宇宙の一部なのだ
我々は、「真理」を探し求めるものではなく
「真理」そのものなのだ
このことを、
理解確信することが八正道の第一「正見」である。
そして、その「真理」と一体感を体感する方法が
八正道の2から8なのだというトレーニングマニュアルです。
そしてそのトレーニングの1ステップである
第七『正念』をその部分だけ取り出し
更に、第一の「正見」を前提としないで実行することを
マインドフルネスと名乗ってよいのか・・というのが
一照さんの主張だと思います。
次週は八正道に触れながら、会場のやりとりを伝えます。

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