サテ、藤田一照さんの話の解説三回目です。
一応肝心なことは、三回でまとめたいのですが、
実際に話したり、飲んだりしている時の、イキイキとした
面白さは、内容を伝えようとするとこぼれてしまいます。
その辺はおいおい、お伝えしたいと思うのですが
今回は、仏教が現実直視のリアリズムだという話です。
前回は、マインドフルネスの実践において
(今ここで、起きている事柄に気付いている自分)
が、西洋的な、「我思う故に我ありの」我であったら
集中すれば集中するほど
本来の「正念」あるいは、「不忘念」からずれてしまうのではないか
という指摘でした。
集中とか、瞑想とかしている、「お前」は誰だという話です。
ここからが、『一照』の面白いところで
仏教や禅の真髄ともいうべきことを説明するのに
いきなり、プラスチックの球体のようなオモチャを持ちだしました。
直径20センチぐらいですが、細い棒を組み合わせて
広げると球体になり
縮めると 「いがぐり」 や、「うに」 のような形になる
何かの、教育玩具です。
これは、
固まらないとか、固定化しない
自在に流れるように、とどまるところがないのが、本来の三昧の境地
ということが伝えたいのです。
これは配布されたテキストでは
思念の対象は絶えず変化するから思念の心象もそれにつれて
絶えず変化しなければ心は囚われていることになる
とか
あるいは
「住心・観静は、これ病にして禅にあらず」と紹介されています
更に、驚いたことに
今度はマジックアイを取り出します
マジックアイは立体画像が浮き上がって見える
ソレを普通に目を凝らしてみても、意味不明のパターンの
繰り返しの、カラフルな印刷物のことで
ホログラフの原理を応用したものですが
其の紙を普通に見つめるのではなく
わざと、焦点をずらし、ぼんやり観るというか
其の紙の奥に焦点をもっていくことにより
左右の目の視差を利用して
立体像を観るのです。
これが
「見ようとするとかえって見えない」という例えになっているのですが
うまく伝わるでしょうか?
ポイントは仏教のエッセンスで
人間の苦悩は
「我」に対する執着にある
「我思う故に我あり」というのは
物心ついてから今の瞬間まで
世界を観察し、人とふれあい、物思う
「自分」が時間と空間の距離ゼロ。原点に常にいる。
観察している、他の人や、会社や、世界は、変転する
ここに、物事は変化するということを認めるのはたやすい
しかし、ソレを観察し続けてきた
「自分」は、他の原因がなくとも
独立し、すべての原因のように存在し続けられるように
思えてしまう。
本当は、その自分も変化する
生まれ・老いて・病になり・やがて死ぬ
肉体は変化することは認めても
自分という意識もまた生滅する「事実」は受け入れがたい
何時迄もまでも死にたくない
というのが、苦悩のもとである
この現実を直視する
ありのままを見る
というのが仏教で
他の宗教のように
この世は汚れに満ち、矛盾だらけで、理不尽なので
これは仮の世界
本当の世界は真実に輝き、善意が報われ、素晴らしい別世界
この世で努力し、頑張れば
素晴らしい天国へ。橋渡ししてくれる 教えと
橋渡し役がいるから、信じなさい
という宗教と全く違う
スーパーリアリズムの教え
そして、其の現実を観ると言っても
いわゆる諸行無常というような
虚無的なものではなく
ただ座っているだけで
大自然と一体・即身成仏
この、小さな自分にこだわっているより
はるかに素晴らしい
観るものと見られるもの一体の
安心立命の境地に至る
ソレが、釈迦の教え
道元禅師の教えであり
本当のマインドフルネスですよ・・
と、一照さんはいいたいのだと受け取りました。
次回、は こぼれ話をお伝えします
こちらのほうが面白いのは当然ですが
言葉で表現しにくい、真髄を伝えられるかもしれません。
お楽しみに

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