みなさんは、信仰をお持ちですか?
私は、信仰を探しています。
「われ思う故にわれあり」という言葉は、このブログで
何度も取り上げました。
近代精神の原点ともいうべきこの、デカルトの言葉は
「自分が観察する全てのものは、実は幻想ではないかと
疑うことができるが・・その疑っている自分が存在すること
は疑うことができない」・・というところから生まれました。
私達の実感からも、
周囲を観察している、自分の意識は
何かの結果としてあるような気がしないので
まず、最初に自分の意識が在り
その結果その意識が観察する何か在ると思えるようです。
その結果、自分の意識は、自分の肉体を原因としなくとも
存在するように思え・・
肉体を離れた心・・魂の存在が信じられるようにも
なるのです。
そうであれば、私の、弟の魂も、どこかで私や彼の子供たち
彼が無くなってから結婚し生まれた、彼の孫たちを見守っている
でしょうし
みなさんの、大切な亡くなった方も、みなさんを見守っているだろう
ということになるでしょう。
そのような、自分の意識に関する感じ方が
信仰の原点のひとつだと思いますが、
現代科学は肉体の無い、精神をみとめません。
そして、私の解釈する仏教もそのようなことを認めません。
自分の心は外界からの刺激により発生するというのが、
五蘊界空の思想です。
その刺激とは,眼・耳・鼻・舌・身から発生し、それが、心を
作り出すのだというのです。
だから、その外からの刺激を遮断すれば
その結果生じる、意識も消すことができるということになります。
実は、座禅とか瞑想はその修行と考えられます。
現代では、棺おけのような入れ物に、体液と同じ温度、比重の液体
を満たしたタンクがあり、真っ暗にし、音も完全になくすと
誰でも、簡単に眠るか、瞑想状態に入る、アイソレーションタンクという
装置があるそうです。
釈迦は肉体をいじめることにより、
肉体の力を弱め相対的に精神の力を強めるという、
苦行の方法は、
悟りにいたることは無いと判断し
呼吸をコントロールし、
明確な意思を強化して、
強い、自己暗示、
自己催眠の深まりのなかで、
自分の深層意識に入っていったと思われるのです。
しかし、それだけでは、快楽は得られても、不死は得られないはずです。
私達の脳の中では、あらゆることは、
食べても、飲んでも、遊んでも
ニューロンの発火のパターンで表されます。
言い換えれば、
ニューロンの発火パターンを再現すれば
それが現実におきた事と、
「原理的」に区別できません。
釈迦は弟子にこんな問いをしたことがあります。
「この国で、持つとも、贅沢なのは誰であろうか」
「それは、きっと、この国の王様でしょう
彼は、素晴らしく贅沢な王宮にいて、贅沢な家具調度に囲まれ
目の前に踊り子がいて、指一本上げるだけであらゆる歌舞音曲を
一時間でも二時間でも楽しむことができ、
どのような、酒も、食べ物も、指一本鳴らすだけで、目の前に運ばれ
味わうことができるからです。」
「私は、この場から、一歩も離れること無く
指一本動かすことも無く一ヶ月でも二ヶ月でも
無上の楽しみを得ることができる
どちらが贅沢であろうか・・」
現代の脳神経科学はこれがありうることだというのです。
それでは、不死を得るとは・・すみません次回に

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